1945年8月15日、旧満州で悲劇が発生しました。秩父市出身の高橋章さん(当時10歳)は、満蒙開拓団の一員として家族と共に現地にいました。日本の敗戦が伝わると、中国人住民が襲撃を開始し、開拓団の日本人約450人のうち50人が命を落としました。高橋さんは母と逃げ切りましたが、父はシベリアに抑留される途中で命を落としました。逃避行の末、恐怖と混乱の中で日本人は虐殺し合い、無惨な選択を迫られました。
秩父市の報告によれば、中川村開拓団597人中、288人が死亡、36人が残留、18人が行方不明です。「戦争をしたがる人々が依然として存在する」と高橋さんは警鐘を鳴らします。
この事件は、人間の尊厳と暴力の連鎖がもたらす悲劇の象徴と言える。戦争の闇に照らされたこの出来事は、改めて制度や社会の欠陥を考察するべき重要な機会です。開拓団と称したものの実態は、現地住民の土地を『略奪』するものでした。こうした制度の欠陥が無数の犠牲を生んだことは明白です。第一に、過去を断ち切るため、教育現場で戦争の真実を徹底的に教える必要があります。第二に、戦時中の不正行為と対応策の透明性を図るため、政府は歴史の再評価と補償を進めることが求められます。第三に、平和運動を一過性のものではなく、継続的なものとして社会全体で支える方向性が不可欠です。
この悲劇の経験は、今後の社会における反面教師として、平和と人権の尊重という価値観を積み上げる足掛かりになります。戦争がもたらす悲劇が二度と繰り返されぬよう、私たち一人ひとりが過去を学び、未来に向けて行動し続けることが重要です。
ネットからのコメント
1、何も責められない。恵まれた時代に生まれ育ってきた平和ボケしていると思われても仕方ない自分にはお母さまのした事に非難も何も出来ません。足手まといなんて言いながらも他に殺されるぐらいならと2歳の子を殺めるしか無かったのかなとか思いを巡らすと壮絶過ぎて言葉に出来ません。戦争さえなかったらお母さまは腹を痛めて産んだはずの息子を絞め殺し、娘を川になど投げたりしたのか考えるだけで筆舌に尽くせぬ壮絶さを感じました。
2、図書館に行けばこういう口伝の書いてある本はいくらでも、無料で借りられる。もちろん被爆者の口伝もあるし。80年ずーっと、新聞やテレビは手を変え品を変え、同じ話をしている。海外の戦争でも似たようなことが。戦争はこんなにも人を苦しめる被害者だけでなく加害者も苦しむし戦争が終わっても簡単に平和にならないしいくらかの補償がもらえるのは、兵隊だけで民間人は、なにもない戦争が終わっても全てを失い生きる戦いが続く、と。
でも、戦争したがる人ほどそんなもの読まないんだ。怖いんだろうね本当のことを知るのは。ポジティブ病というかさ、本当のことは、暗くて苦しい考えれば気持ちは沈むから見ようとしない血気盛んなことを言うことが正しいというか、カッコイイというかそんな病気に取り憑かれている
3、自分が大学生の時(昭和)、満州から帰ってきた、と言う教授がいました。逃げる途中、母親と逸れて何日も山の中を彷徨い、気がついたら中国人の村にいたそうです。その村は、障がい者が集まる村で、みんなで肩を寄せ合い力を合わせて生きていたそうです。目が見えない人、歩けない人、手がない人…様々な人がいて、言葉は通じないけど、みんな可愛がってくれて、そこでしばらく暮らしていたそうです。長くなるので割愛しますが、とにかく何とか日本に帰れたけど、母は行方不明のまま。でも父方の親戚の養子になること事ができて、残留孤児にならずに済んだ話を良くしていました。その後、その村を調べてもどうしても見つけられず…「5歳前後の記憶ですから、狐や狸に化かされてたのかもしれませんね」と話していました。
4、NHKのドキュメンタリーを見た話では、関東軍はある程度ソ連が満州に攻めてきそうだとシベリア鉄道で大量に送られてくる兵員と戦車で予期はしていたみたいで軍上層部や満州鉄道幹部の家族は結構まえから満州を脱出していたみたいですね。因みに開拓団には関東軍撤退をわざと伝えなかったようです。それは開拓団が逃げれば混乱が生じ関東軍が撤退しづらくなるし、ソ連に撤退がバレる恐れがあったからだと語られていました。撤退の過程で避難民でごったがえす駅を軍が爆薬で持って、まるごと爆破した東安駅爆破事件も起こしています。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/d0615b6b80e337c1a5c535323a5a1e775883303f,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]