1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、防空壕に避難した住民と日本兵が、泣く赤子によって敵に見つかることを恐れていた。真喜屋光子さんの母親も、その中で赤ちゃんを守るために厳しい決断を迫られる。結局、母親は赤ちゃんを抱いて壕を出て行き、その後アメリカ軍の捕虜となる。真喜屋さんの父親は南部で戦死し、終戦後、父親の部下から彼の最期を聞く。
父親は部下に「次の時代に生きろ」と告げ、自分の死を選んだ。その生き方に娘として誇りを持つ真喜屋さんは、戦後80年の今でも平和を願い続けている。
この物語は、戦争が人々にどのような決断を強いたかを痛烈に描いています。兵士たちが赤ん坊の命を軽んじた背景には、極限の状況で選択肢がなかったことがあるでしょう。しかし、その異常な状況を産んだのは、戦争という制度そのものです。現在の私たちも、この事実を直視し、再び同じ過ちを繰り返さないために行動する責任があります。今の時代に求められるのは、戦争や暴力に頼らない国際社会の構築です。そのためには、平和教育の強化、国際連携の推進、紛争解決のための新しいルール作りが必要不可欠です。命を守れなかった過去から学び、未来にはすべての命が尊重される世界を築くべきであり、それが私たちが果たすべき義務です。
ネットからのコメント
1、日本軍将校により、米軍の観測機に見つかるのを恐れて、民間避難民に子どもを殺すよう命令したことがサイパンやフィリピンでも確認されています。フィリピン軍事裁判で、日本人に対する戦争犯罪で裁かれた例がありますが、それが日本人避難民に対して子供を殺すよう命じた日本軍将校に対してのものでした。黒歴史だが、まともに向き合っていかなければならない歴史でもある。
2、1970年代までは、戦時中に大人だった人や戦争から帰ってきた人達が、社会の中に多数存在していたけど、その人達の多くは、現代人が語る自虐史観的な歴史の見方とは全く違ってた。その証拠に、当時人気のあった映画やドラマ、漫画なんかでも、戦争の扱い方が今とは全く違っている。どちらかといえば、フツーの市民にとっては、ソ連、共産主義に対する嫌悪感が強かった。結局、そういう人達が55年体制下で自民党を支持してたんじゃないの?90年代を過ぎて戦時中に大人として生きてきた人達が減ってくるにつれて、自虐史観的な歴史が完全に作り上げられたような気がする。
マスコミの人達は「戦争の話を語り継がなければいけない」みたいなコトバをよく口にするけど、本当にその時代に生きてた人達の感覚を正確に語り継いでいないと思う。どこから持ってきた歴史観なんだろうね?
3、今年81歳になる私の母も、戦時下は乳児でした。当時の祖母は栄養不足で乳が出ず、近所の乳母から分けて貰っていたそうです。戦火が激しい南部地区で、よくぞ生き残ってくれたと、祖母と乳母には感謝です。祖父母も母も幸い無傷で終戦を迎えました。しかし軍人だった祖父は、今で言う【PTSD】のためアルコール依存症となり、81歳になった母は、今でも祖父から受けた暴言暴力に苦しんでいます(特に、認知症の症状が出始めてから、昔のことを思い出し、癇癪を起こすので、私たち兄弟や孫も振り回されでいる状況です)。戦前は素直で働き者と評判だったという祖父ですが、【戦争】が祖父を壊してしまいました。今ある平和に感謝して、二度と戦争が起こって欲しくないと願っています。
4、アメリカに負けて統治機構を変更しなくてもいずれ破綻していただろう。愚かな大本営が南洋の島々にこだわり、置き去りにされ飢えて大変苦労した。
兵站に不安のない沖縄・台湾まで初めから撤退してそなえるとか考えが足りなかったのは残念。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/faa4cc825086a16ea20b62363bc4edc0ebc0287c,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]