1944年10月20日、連合軍約20万人がフィリピン・レイテ島に上陸し、日本軍との決戦が始まった。この戦いは「レイテ沖海戦」として知られ、太平洋戦争最大の海戦であった。日本海軍は戦艦「大和」や「武蔵」を中心とする艦隊で反撃を試みたが、連合軍の攻撃により多くの艦船が沈没。
戦艦「武蔵」や「妙高」も激戦の中で沈み、最終的に日本側は戦死者約7500人から1万人を出し、敗北を喫した。特に、栗田艦隊がレイテ湾突入直前に命じた「反転」命令が「謎の反転」として後に批判を受けることとなった。
レイテ沖海戦は、戦術的な判断ミスと連合軍の優れた情報収集能力が決定的な敗因となった。特に、栗田艦隊の「反転」という謎の決断は、戦局を逆転させる可能性を放棄した重大な失敗だった。戦争の指導者たちが、現場の情報を適切に活用できなかったことが、数千の命を犠牲にする結果を招いた。戦艦「大和」や「武蔵」のような巨大な戦艦が有効に機能しなかった背景には、時代遅れの軍事戦略があったことも否定できない。これらの教訓を生かすには、リーダーたちが現場の声に耳を傾け、現実的で柔軟な戦術を採ることが求められる。
ネットからのコメント
1、栗田中将はミッドウェー海戦でも損傷した最上を置いて、一目散に逃げている。その間、状況を上級司令部に全く連絡しない。消極的な戦い。レイテの海戦でもブルネイを出港後に、偵察機を早々に陸上基地に派遣したため、サンベルナルジノ海峡の戦いにも圧倒的に有利な戦力でも苦戦。レイテまで1日以上かかるのだから偵察機を手放したから状況把握が出来ない。レイテ直前に逃げ帰った。こんな指揮官で、レイテに突入しても勝てる訳がない。
2、レイテ湾に近付いた時点で第一遊撃艦隊は満身創痍。大型艦に限っても武蔵を始め摩耶、高雄、愛宕を記事にある様に緒戦で戦列から失い、サマール沖海戦でも筑摩、鈴谷、鳥海を失い惨敗していました。そしてレイテ湾には旧式とはいえ戦艦6隻を始めとする艦隊が。このまま第一遊撃艦隊が突入したとすれば大和を始め艦隊はほぼ壊滅。戦果は少なかった物と思います。それ程に彼我の戦力差は開いていたのです。
3、アメリカは開戦前からもう日本との戦争を想定していて、それには都市への戦略爆撃が最も効果的との判断から、B-29は日本への高高度戦略爆撃を目的に真珠湾攻撃よりも前に開発していたようです。
ヨーロッパ戦線でこれを使うのはイギリスの基地を使えば航続距離を要さないことからオーバースペックでしたので、端っから日本攻撃が目的でした。対する日本は、陸奥や長門の大砲が太平洋を睨んでいればアメリカは手出しできないなどと、依然として艦隊至上主義で、昭和16年に行われた日米開戦シミュレーションでも都市への戦略爆撃はほぼ想定していないなど、一言で言えば戦略ミスでした。戦略ミスは戦術では挽回できません。
4、第一遊撃艦隊として、栗田艦隊に所属して生き残った士官(現場指揮官として作戦趣旨の一部を把握していた)の証言では、サマール沖開戦後の反転には疑問が無かったというものがある。理由は「サマール沖で会敵した米艦隊を正規空母の機動部隊と誤認していたため、北方にもう一群の存在を誤認したことで転身した」とある。真実は分からないが、唯一言えることは、ミッドウェー、第一次ソロモン、レイテと、主力艦隊の作戦目標を「上陸部隊の撃滅(ミッドウェーは同島の無力化)、機動部隊の撃滅」の優先順位を明確にしないことで戦機を逸したことである。
なお、レイテ沖開戦は惨敗したが、ここでの米海軍の損害と弾薬の消費から、フィリピン沖での航空支援が弱体化したことで、44年11〜12月のレイテ決戦空域の航空優勢を陸軍航空隊が掴みかけた事実と、そのどさくさに海軍も北号作戦で最後の本土宛資源輸送に貢献したことは忘れてはいけない事実。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/c51d52b4058bed91a83be0d2cfbead2f35242f57,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]