事件概要:1945年8月6日、広島市で中川峰子さん(当時15歳)は、爆心地から1.5キロの自宅前で原爆の爆風に吹き飛ばされ、瓦で頭を打ち、左半身を負傷。爆心地近くで、家族と共に弟・智夫さんを捜索。炭化した遺体や倒れた頭蓋骨の中を歩き回り、臨時救護所で名前の書かれた瓦を発見し、智夫さんと再会。智夫さんは、建物の下敷きとなり、見知らぬ男性に助けられた後、親戚の家で看病されながらも9日朝に亡くなった。
中川さんは、悲しみと共に平和を願い、被爆体験を次世代に伝えるため折り鶴を作り続けている。
コメント:中川峰子さんの体験は、あまりにも深い悲しみと恐怖を伴ったものであり、彼女が80年間にわたって心に抱え続けた痛みを感じます。戦争の影響は、時間を経てもその傷を癒やすことはなく、今日でも続いています。戦争がもたらした無数の命の喪失と破壊、そしてそれに続く心の傷をどう癒すかが問われています。
被爆体験を通じて、彼女は平和を願い続け、次世代への伝承を行っている姿勢には、真摯な思いが込められています。しかし、このような体験が二度と繰り返されないようにするためには、まず戦争の現実をしっかりと理解し、教育の場でその重要性を訴え続けることが必要です。今の世界で戦争が続いている現実を直視し、無力感に打ち勝つための行動を起こさなければなりません。
再び広島や長崎のような悲劇を繰り返さないために、私たち一人ひとりができることを考え、行動する時です。
ネットからのコメント
1、小さい頃から平穏に一緒に過ごした兄弟が、ある日突然戦争で奪われてしまったのは本当に辛かったと思います。重症を負いながらも中川さんが長生きしているのは、弟さんが生きるはずだった人生も神様が与えてくれているのかなと思います。祖母も戦争ではありませんが、母親と夫を早くに亡くしていて、周りから見たら今年で98歳とは思えない程若々しい見た目です。こんなに私だけ幸せでいいのかと毎日仏壇に問い掛けていると言われたので、ジージ達が生きたかった分をバーバに見続けて貰いたいのかもしれないと話したりしてます。
2、原爆資料館に行ったことがあります。初めての広島で、時間あるし行ってみるかって軽い気持ちで行きましたが、結局3時間近く見てました。言葉を失うとはこういうことかと思いました。かわいそうとかむごいとかそんなレベルじゃないんです。その日はもちろん、その後数日引きずりました。頭から離れなくてずっと気持ちが沈んでました。
でも本当に行ってよかったと心から思いました。あの悲惨な現実を全人類見るべき。誰が悪いとかそういうのは一旦置いといて、自分の目で見て何かを感じてほしいです。
3、社会科の教員です。若者にも戦後80年という節目に、平和について考えて貰いたいと思いますが、取り組んでいけばいくほど、何をどう伝えていくか、責任の重さを感じます。それでも戦争を体験した方々の記憶を次世代に伝えていくことだけは絶対にやらなければいけないと思っています。
4、この4月から沖縄に転勤でいきました。ここも戦争の犠牲になった方が多くおります。広島長崎の原爆にしろ沖縄戦にしろ教科書で書かれた上辺だけの知識でわかったつもりだったが、沖縄に来て自分の無知に恥ずかしさを覚えた戦争は絶対にしてはいけないだから核保有国は威嚇に使わないでほしい
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/b0b61a8e87d2ae8adec2f32b9a57e99a11cc4800,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]