裸婦像の撤去が全国で進んでいる。高松市中央公園の少女裸像は、1989年に地元ライオンズクラブから寄贈されたもので、再整備計画の一環として撤去が決定された。市は人々の価値観変化や児童の裸像が公共空間にあるのは望ましくないと判断。作者の阿部誠一さんは撤去を残念に思い、作品は成長を表すものだと語った。撤去の動きは、兵庫県宝塚市や静岡市でも見られる。
文化的象徴としての設置から時間が経ち、公共空間から美術館への移動が議論されている。
この裸婦像撤去問題は、時代の価値観の変化に直面していることを示している。しかし、作品の撤去を安易に決定する前に、文化的背景と公共空間における芸術表現の在り方をより慎重に考慮する必要がある。第一に、公共の場における芸術表現とその教育的価値を再評価し、市民に対する啓蒙活動を積極的に行うべきだ。第二に、撤去に関しては、地元コミュニティや専門家の意見を多角的に取り入れ、民主的に決定することが求められる。第三に、作品の保存場所や展示方法を多様化し、美術館内だけでなく、教育機関などでも公開することでその価値を広げることが必要だ。結果的に、文化と価値観の対話が進展し、多様な視点が共有されることが望ましい。裸婦像撤去問題は単なる一過性の現象ではなく、社会の変革期における重要な課題である。
ネットからのコメント
1、アメリカに20年とドイツに3年住んでいた。私はこの「日本では裸婦像が子どもも見る公共の場に設置されている」という状況を、アメリカに住んでいる時の日本旅行記のテレビ番組の中で、その案内人が驚いているのを観て初めて意識した。それからはアメリカやドイツに裸婦像ってないかな。。と時々目を凝らして歩いたりしたが、確かに見かけなかったかもしれない。比較して美術館にはとても多い。うーん。。ただ、個人的には、だからなんだ?と思う。最近は「日本ファースト」ではないが、日本人を最も大事にすると同時に、その思想や思考や慣習だって、これからは日本人が自信を持って自分達でいろいろな価値観を決めれば良い。違うか?こんな小さな話題だって、直ぐに「欧米では。。」となる日本。
日本人ファーストの前に、先ずは日本人の独自の物事の指標を構築する事が先ではないか?ちなみに欧米の指標の基本はキリスト教だよ。
2、「命の瑞々しさ」や「平和」の象徴として裸婦像がふさわしい、という発想は賛否あると思う(どちらとも言えない)が、裸婦像をじっくり見ている男性がいたら「変質者かも」と周囲の主に女性が思うような社会にはなっていると思う。芸術作品をじっくり味わうために、そう言う外野の雑音に邪魔されないように、美術館や博物館の敷地内に限定するなどの対応が必要かも。
3、もうかなり前、まだCATVで放送大学が見れてた頃に美術の講義でこれを扱っていた女性の教授がいらっしゃいました。「あぁ、そういう見方もあるのか」と感じると同時に、一度そういう見方をしてしまうと難しいだろうなと感じました。この記事を読んで、アート作品を見ようという意識がない時、あるいはそもそもそういう意識がない人もいる公共の場には合わないものになってきたのかなと感じました。
4、何を芸術とするか、どこまでの表現を芸術として許容するかは、その時々の鑑賞者(つまり一般社会)の感性次第だからなそれは当然時代によって移ろいゆくもので、そういう時代の洗礼を乗り越えたものだけが「クラシック」としての価値を認められるわけだろまあ作った当人からすれば残念ではあるだろうけど、芸術ってそういうもんなんじゃないの仮に普遍的に認められる何かがあるなら、きっと誰かしら保護する人が現れて、また社会の感性が変わる時まで残してくれるだろうしさ
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/5ff1bc59e8f4fff9c506dbeb8b401decfbc905b5,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]