日本初の本格的な仏教寺院・飛鳥寺跡(奈良県明日香村)で出土した甲(よろい)と、韓国・忠清南道公州市の百済王宮遺跡で発掘された甲の構造が酷似していることが、日韓共同研究で判明した。飛鳥寺は、百済から派遣された僧侶や技術者によって588年に建設が始まったと『日本書紀』に記されており、この結果はその歴史記述を裏付ける成果とされる。1957年、飛鳥寺跡の心礎付近約2.7メートル地下から鉄製甲が発見され、後の三次元計測などで百済遺跡品と構造や形状が類似していることが確認された。記録から百済との文化交流の深さが明確となり、これまでの高句麗影響説が訂正される可能性がある。

この発見は歴史的価値が極めて高く、日韓両国の古代交流を再評価する重要な契機となる。本研究を通じて、歴史の真実に迫る姿勢が学問における国際協力を象徴し、多くの示唆を与えている。
ネットからのコメント
1、百済の亡命貴族が飛鳥時代に王朝に入り、その知識で出世したと言われている。当然ながら彼らの持ち込んだ文物が寄贈されたりしたのだろう。酷似しているといわれるがほぼ同じ作りなので、同時代に海を渡ったか、日本で同じ作り方で製作されたのだろう。中世の武士の鎧にもその影響は色濃く出ている。それまでの簡素な木製から糸で頑丈に補強された色合いも複雑な中世仕様に。島国に異国の文化が入り技術革新するのが昔から行われていた証なのだと思います。
2、4世紀後半に書かれた好太王碑を読めば、倭が、今のソウルまで軍を進めてましたから、甲冑に共通点があっても不思議でないです当時の地理では今の大坂はほとんど海で、大和川をさかのぼれば、飛鳥までいけましたから宋書(5世紀)にも倭の五王が、朝貢してますから北部九州と朝鮮南部との交友は、さかんでした
3、百済は白村江の戦いで消滅するまでは、倭国と百済は、同盟国だったからね。日本は、当時は飛鳥時代でした。斉明天皇という皇極天皇が重祚した天皇の時代でした。
百済は、唐と新羅の連合軍によって消滅したのでそれを助けるために斉明天皇が自ら指揮をとって進軍したが、奈良県から九州に到着したところで力尽きて、その子の天智天皇が朝鮮半島に出兵したものの結局は大敗北して、百済が復興は叶わず、それ以降の倭国は、国境の防備を固めて、国のあり方が変わった時代でもあった。百済の貴族はどんどん亡命してきたのよね。
4、百済と同盟を組んでいた時代には、朝鮮半島南部の任那という地域を日本が統治していたという記述があったはず。高句麗から百済が攻められた時には日本からも援軍を出していたとかね。その後、百済の王族は九州に渡り宮崎県に逃れて行ったとか。百済の鏡を祀る神社もあったよね。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/88284203d057f0ab5c97f2cba3face93e8227459,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]