小学校での教育実践として、1990〜93年に黒田恭史さん(現・京都教育大学教授)が行った「命の教育」が話題です。このプロジェクトでは、子どもたちが3年間育てたブタを卒業前に、「下級生に引き継ぐ」か「食肉センターに送る」かを自身で議論し決定しました。その結果、初めは意見が割れながらも引き継ぎで一致しましたが、最終的には黒田さんが独断で食肉センターに送る決断をしました。
これは命の尊さや死に向き合う教育の一環として高く評価され、テレビ番組や映画化されるなどの反響を呼びました。今日の社会においてもこのような「命の教育」の必要性が叫ばれていますが、現場での実践の難しさが課題として残っています。

このニュースは、社会的な価値観や教育の在り方に関する深い議論を呼び起こします。子どもたちにとって、命の重さを直面させる教育がいかに重要であるかを問うものです。命の教育が現代社会で十分に実現できていない現状に対して批判的な視点で考察します。

教育現場での命の教育の不在は、現代の教育制度の大きな欠陥を表しています。命の尊さを学ぶことは、子どもたちにとって未来社会での生きる力を育むもの。しかし、学校で実施するには障壁があり、家庭環境だけに頼るのは不十分。さらに教員不足や働き方改革が、動物飼育など実体験を伴う教育の実現を阻んでいます。
まず、教育カリキュラムに命の教育を組み込み、教員が具体的な実践を行える環境整備が必要です。次に、地域と協力し、命の教育をサポートする体制づくりを進めること。最後に、命の教育を通じた子どもの成長を評価するシステム導入も欠かせません。これらを通じて、命の教育が無理なく効果的に行われることで、子どもたちに真の「生きる力」を授けることが可能になります。
命に向き合う意識の欠如は、単なる教育の遅れではなく、社会全体の未来への投資を損なうものです。教育改革を通じて、未来の担い手である子どもたちに命の大切さをしっかりと伝えていくべきです。
ネットからのコメント
1、涙を流しながら命に関する意見を述べ、クラスが真っ二つに割れる話し合いをするという経験は、大人でもなかなか無い。
この先生のクラスだからできたことで、結果的に次の6年生に引き継がなかったことも決して悪い選択ではなかったと思う。引き継ぐ前提で下の学年が関わっていたわけではないから、豚を育てた子達と、引き継がれた子達と担任では温度感が違う。そして、「普通の感覚」をもって子どもの教育に関わったこの先生はいいなと思う。家族等の命の選択をしたら、きっとその後もベストの選択だったか自分に問い続けるだろうから。
2、こういったことは買う前に考えるべきかもしれない。家畜として接していた子はいいけど、中にはペットとして接していた子もいるかもしれない。結論が出ずに引き継がせるのは問題を先送りするだけな気がするので教育としてはよくないと思う。食肉センターに送るだけなら家畜じゃなくてペットを処分したのと同じ様な気がする。家畜なら売ったお金で何かを買うべきだったんじゃないか、そうすればペットの違いを教えれるし労働と考えれば気も楽になる。自分がここの生徒ならしばらく豚肉食えないかも。
3、私はこの手の教育は、先生の自己満足であると思っていて大嫌いです。
先生と生徒には上下関係があって先生の決定に生徒はノーとは言えないこと、生徒には色々なタイプがあり命を大切に思わない子には効果があるかもしれないが繊細で一生深く傷ついてしまう子もいること、世話は自主性という耳障りのいい言葉を使っているが責任感が強かったり気の弱い一部の生徒の負担が大きかった可能性があること、命を学ぶ年齢やタイミングは子供によって違うので各家庭の方針もあるということ。教えたい意図は分かるのですが、他の方法があったのではないかと思います。
4、最初から事情や狙いを説明して理解させた上で始めたならともかく、その豚をどうするか子供らに委ねるのは酷な気がします。ペットとして犬や猫のような気持ちで豚の世話をしてた子供もいるだろうし、飼い犬・飼い猫を食べるようなおぞましさを感じてしまう子もいるだろうし。。感受性豊かな子に考えてもらうきっかけとするには精神的負荷が大きすぎる気がしてしまいます。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/3df7d864b13d673eedc683e37b070fe921ce4f65,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]