不破哲三さんは1945年8月15日の終戦まで軍国少年として育ちましたが、終戦をきっかけに共産党に入党し、科学的社会主義を探求しました。彼は18人の歴代首相と論戦を交わし、党内では理論的支柱として影響力を保ち続けました。趣味の山歩きで論文の構想を練ることもあり、晩年まで政治に鋭い視線を持ち続けました。彼の人生は、思想の進化と熱意を持った政治家としての生き方を色濃く示しています。

不破さんの死去に対して、多くの人々がその生涯に感銘を受け、彼の政治姿勢や人柄を振り返り、惜しむ声が上がっています。彼の人生は、価値観が劇的に変わることの重要性を示しています。不破さんのように、自らの信念に基づいた生き方を貫くことは、誰にでもできることではありません。その道のりを共に歩んできた仲間や支持者たちにとって、不破さんの存在はかけがえのないものであり続けるでしょう。彼が残した業績や教えは、これからの世代にも影響を与え続けることでしょう。
ネットからのコメント
1、「敗戦の瞬間まで典型的な軍国少年だった」のは当たり前。私の両親も含めて、戦中派の生きた時代はそうだったんです。そっから先は自分が選ぶ道。 不破さんは共産党に転じたし。逆にナベツネ(渡辺恒雄)さんは東大新人会(共産党細胞)の幹部から、日本の保守勢力の中核に転身。
読売新聞グループを育て、同時に日本のテレビ放送業界と原発行政を離陸させました。 立ち位置は色々ですが、左右どちらにしても昭和という時代の勢いを感じます。令和もっともっと頑張れ。
2、自称「庶民の味方」日本共産党のトップに長年君臨し、敷地面積約1000坪(一般的な邸宅の25軒分)の通称「不破御殿」にお住まいだった蔵書は数万冊に及び、私的図書館としては国内屈指とも言われた御冥福をお祈りします
3、太平洋戦争の反動で共産主義者になったというところは理解てきなくはない。ですが冷戦が終結した1990年頃に、共産主義が人々を不幸にする政治体制だということに気付いているべきだと思う。ある程度の歳になると思想は固定されてしまうのか…
4、府立第六中学校(現在の新宿高校)の出身。東大に多数の合格者を出していた進学校だが、府立一中(現日比谷高校)などとはことなり、ちょっと庶民的で、野人的な魅力をもつOBが多い。初代校長のナショナリスティックな教育の影響は色濃く、不破氏も学生時代、興国の鐘(戦艦三笠で使用されていた鐘)の音を聞き、皇居を遙拝していたはず。
海軍兵学校の入学者数一位になったこともある。東京電力の社長を務め、福島第一の賠償訴訟で訴えられた人物(無罪確定)は、兄弟を含め財界の大物だった。音楽家坂本龍一や、彼と高校闘争で名をはせた自民党元衆議院議員の塩崎元官房長官、木枯らし紋次郎で知られる中村敦夫など左右、経済、文化、学術を問わず大きな人物が多かった。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e9354b18a3c7a917595570c434a678b648cd60,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]