1985年夏の甲子園では、PL学園が東海大山形を29対7で圧倒。PL学園は桑田真澄と清原和博を擁する強豪であり、この試合で大会史上最多得点を記録した。一方、山形県では、この歴史的大敗が政治問題に発展し、地元議会で高校野球強化の議論が行われた。山形代表はこれまで全国で唯一甲子園8強以上の成績がなく、この惨敗をきっかけに「どうして勝てないのか」といった議論が活発化。
県高野連は1997年に野球強化特別本部を設置し、冬季合宿など本格的な強化事業を推進。その結果、東海大山形は1987年に初勝利を収め、日大山形も2006年に県勢初の8強入りを達成。
この事件は、甲子園における地域格差と高校野球の重要性を浮き彫りにしました。弱小だった山形県の代表が歴史的な大敗を喫し、県議会で議論が行われたことは、単なる野球の試合以上の社会問題を示しています。地方の野球教育体制の整備不足やリソース分配の不均衡が背景にあります。まずは地域間の格差を縮小するための財政支援を確保することが急務です。さらに、地元の青少年を対象にした野球クリニックの開催、指導者の育成プログラムの強化も必要不可欠です。このような改革は、単に野球結果を改善するだけでなく、地域コミュニティの活気を取り戻す契機となり得ます。
歴史的大敗は、敗者を育むことで未来の勝者へと転じるべき試練であり、これを超えることで本当の成長が望めるのです。
ネットからのコメント
1、1970年代までは野球留学はほとんどなかったから私立でも地元の子ばかりだった。高校に室内練習場もそんなにない時代、北国のチームは冬の季節思うような練習が出来ず、選抜で大敗することが多かったな。いつのまにかこれはどこの代表なんだと思えるほど県外出身者ばかりのチームになってしまった。その子達は甲子園に出たい思いで15歳で親元を離れるわけだ。非難することは出来ないが地元の子のやる気が失ってしまうか複雑な問題だよね。
2、最強時代には「OBだけでプロ球団ができる」とまで言われていたPL学園野球部ですが、甲子園から遠ざかって久しく、今や野球部どころか学園そのものが消滅の危機に在る様です。正に「栄枯盛衰」であり、時代の流れの残酷さを感じますね。
3、リアタイで観ていました。東海大山形のエースは故障の影響か球威が無くまるでバッティングピッチャーのようにポンポン打たれました。気の毒でした。
もう2枚の同レベルの投手がいたらもう少し試合になっていたのではないでしょうか。それでもその後東海大山形は甲子園に出てきて山口県の徳山、今大会のベスト8に残っている県岐阜商に勝っています。代は変わっても当時は応援していました。ここ最近は鶴岡東や日大山形の壁が厚く出場機会がありませんがまた甲子園でみたいですね。
4、リアルタイムで観てました。とにかくKKコンビを始め、PLの打線の破壊力が凄かった。でもこの年のPLは茨城の取手ニ高校に決勝で敗れて、優勝できなかった。一方で、7-29で負けた東海大山形の当時の選手はかなり地元で罵倒や悪口を言われたそうです。今では仙台育英や花巻東、駒大苫小牧など北の強いチームもありますが、当時は北海道、東北は夏の暑さもあり、弱かったイメージありますね。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/0d0f66008396b61450ebf7a834868ea6579bce8c,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]