1945年8月9日、長崎県立長崎高等女学校4年生の伊達木信子さん(当時15歳)は、学徒動員先の三菱兵器製作所茂里町工場(爆心地から約1.4km)で原爆に遭遇。爆風で友人を失い、自身は軽傷で生還したが、父は爆心地0.5kmで被爆し6日後に死去。市街は焼け野原となり、黒い雨が降り注いだ。戦後、被爆者差別により医学専門学校受験や結婚が阻まれる苦難を経験。
95歳となった現在も核兵器廃絶を訴え、次世代に「危険なものは作らない」という思いを語り続けている。
戦後の社会は、被爆者を守るどころか差別と偏見で二重に傷つけた。被爆の事実を理由に進学や結婚を阻む態度は、人命軽視と無知が制度にまで染み込んでいた証拠だ。問題の根は、原爆被害の正確な認識を広めず、偏見を是正する法整備や教育を怠った国家と社会の責任にある。解決には、①被爆者差別を明確に禁止し違反時の罰則を設ける法改正、②被爆の実態を義務教育と公務員研修で体系的に教える制度化、③被爆者証言の記録・公開を国主導で継続する仕組みが不可欠だ。平和の理念を掲げるなら、被爆者を排除する社会は断固として改めなければならない。あの日の地獄を知る人の声を踏みにじる国に、平和を語る資格はない。
ネットからのコメント
1、記事を最後まで読み、言葉を失いました。15歳で父と親友を一度に失い、命を救われた罪悪感とともに、終戦後も受験や結婚で被爆者として差別を受け続けた伊達木さんの経験は、核兵器の恐ろしさだけでなく、被爆者が今なお背負う苛酷な現実を教えてくれます。
95歳になった今、次世代のために重い口を開いてくださったことに感謝します。ご本人が長い間、沈黙を保ってこられたからこそ、核なき未来への願いを語ってくれた重みに、改めて戦争の恐ろしさを感じます。戦争体験者の高齢化が進む中、このような貴重な証言を風化させてはいけないと思います。平和な今だからこそ、一人ひとりが戦争の悲惨な実態を学び続けなければならないと強く思います。
2、東日本大震災のときだって福島から避難した方々に向けて「放射能が伝染る」と言い放った人がいたそうだから、80年前なら尚更だろう。しかもどっちも市井の人々には責任がないのに。戦争と人間の無知ほど怖いものはない。平和は尊いものだし、戦争を呼び込まないようにしっかりと議論しないと。
3、小学生の頃、夏休みの林間学校で「はだしのゲン」と言う映画を見て、子供ながらに衝撃を受けました。戦争の恐ろしさと、命の尊さみたいなものを、幼心にも感じたように記憶しています。今もなお世界のどこかで争いは絶えませんが、そこでは必ず悲しみがついて回っているかと思うといたたまれない。
理想論ですが、世の中から戦争がなくなる日を期待したい。
4、辛い記事だし、考えさせられる記事です。人間は自分より弱い人がいると嬉しくなるという、悲しい性があります。被爆者や戦災孤児や、生まれた場所で差別を受けた人や外国にルーツを持つ人なんかを下に見ることで、自分のさらに悲惨な境遇を受け入れる人がたくさんいた。本能的なものだから解決は難しいけど、せめてそういう考え方は恥ずかしいという教育が続いてくれることを望みます。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/057d5df636420d53b59460c58615c8b9d5ac0199,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]