事件概要:1945年8月、第二次世界大戦の終結に向けた決定的な瞬間が訪れた。日本は、アメリカによる広島への原爆投下とソ連の参戦を受けて、ポツダム宣言を受諾し、降伏を決定。原爆投下とソ連参戦の影響を巡って議論は続いており、広島に原爆が投下された後、昭和天皇と外務大臣東郷茂徳の面会記録が注目された。この時、戦争を早期に終結させるべきとの認識が高まり、会議の開催が急務とされるが、ソ連からの回答を待つ必要があった。
ソ連参戦後、日本の指導層は迅速に降伏への方針を決めた。この一連の出来事は、日本の戦争指導層がどのように降伏の決断に至ったかを示している。
コメント:当時の日本政府は、戦争終結に向けて時間との戦いを強いられていた。広島に原爆が投下された後、昭和天皇と東郷外相が即座に戦争終結に動き出したのは、その破壊的影響が大きかったからに違いない。だが、同時に日本政府はソ連の参戦を切り札として期待しており、核の使用とソ連参戦の影響を切り離して考えることは難しい。広島の核攻撃が戦争終結に向けて加速させた可能性が高いが、ソ連の参戦がもたらした戦局の急変も無視できない。両者の相互作用がなければ、日本はもっと長引く戦争を覚悟していたかもしれない。戦争終結に至る過程は、冷徹な現実と希望が交錯する複雑な状況だった。
ネットからのコメント
1、当時の日本は、何故、共産国家・ソ連の仲裁に希望を託したのか個人的な疑問の一つ。結局、日ソ不可侵条約を破って、日本の北方領土迄侵攻したが、これは当時の政府として原爆以上に驚きだったのか?また、米国は、広島・長崎に続く3発目の核兵器を所持していたかどうか?もし降伏しなければ、どこかの都市が犠牲になったのだろうか?とにかく日本は終戦という言葉を使い、敗戦という現実を隠そうとするのは良くないと思う。
2、色んな意見や見方が有るでしょうが日本が戦争により多くの国民を失ったことは事実、戦争を早く終わらせていれば亡くなった人も少なくすんだのかも、そして戦争は負けたら悲惨な状況があるということで、巻き込まれない限り戦争はして欲しくない。
3、当時のソ連に仲介を依頼しての終戦を主張をしたのは近衛文麿公爵と言われている。それを推し進めたのは木戸内大臣、さらに当時の鈴木貫太郎総理は侍従長経験者と言わば宮廷のしかも賢き辺りのごく近くご信頼が厚いグループの主導したものだが、近衛公自身が直接交渉に乗り出す意向だったようだ。
しかし火事場泥棒のような日ソ不可侵条約違反と言えるソ連参戦これがポツダム宣言受諾、無条件降伏への大きな流となり終戦の詔勅となった。
4、私が重視するのは、「広島・長崎に原爆を落とされ、かつ、ソ連が参戦した後の8月15日に、陸軍の一部が継戦を主張してクーデターを起こした」という歴史上の事実です。もしも原爆投下が無かったら、クーデターに参加する部隊は史実より多かったはずです。終戦を遅らせることに成功した可能性は否定できません。私は、「原爆は戦争終結を早めた可能性がある」と考えます。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/39a898f871382e197b4b393b7583a29b98440fc8,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]