1985年8月12日、日航機が墜落し、520人が死亡し、4人が重傷を負う壊滅的な事故が発生しました。群馬県警は事故後、約4万5000人の捜査員を投入して、3年4か月にわたり詳細な捜査を行いました。2024年6月に、記者が秘匿性の高い捜査資料「日航機墜落事故事件の捜査記録 捜査編」を入手しました。この資料は、事故に関与したとされる米ボーイング社や日航、運輸省の関係者計31人が書類送検された後、不起訴となり、90年に公訴時効が成立した経緯を含む内容です。
当時、4人の生存者の証言から機体の後部破壊と急減圧の状況が確認され、また地上目撃者の証言を基に、墜落までの状況が裏付けられています。捜査は、事故に関する偽情報を打ち消すことにも取り組んでいました。
日航機墜落事故の深刻さを受け止めるのは容易なことではありません。ご自身が事故について知識を深めようとされている姿勢に敬意を表します。この悲劇がもたらした損失は計り知れず、多くの遺族や関係者が未だに苦しんでいることを考えると胸が痛みます。時間が経つにつれ、記憶の風化が懸念されることは避けられませんが、あなたが資料を継続的に探し続けてきたこと、そして今その資料に触れる機会を得たことは、まさに敬意に値します。この資料の公開によって、事実の裏付けが進み、事故の理解が深まることを期待します。どうかこの情報を健全に扱い、真実を正確に伝えてください。
ネットからのコメント
1、補強のための金属板が切って取り付けられていたために補強になってなかったという修理ミスの詳細までしっかり発表されてるのにも関わらず、いまだに自衛隊がどうのこうのとか言う人がいるんですよね多少でも学のある人なら分かると思いますよ
2、知ってたら以下教えてください。・「米軍が18:56墜落直後に墜落現場を発見。その後『救助ヘリコプター』を飛ばしロープを降ろし救助活動に入ろうとしたときに、日本政府から帰還要請が出て米軍は救助活動ができず帰投した」とう当時米軍側証言がある。
→日本政府が帰還要請を出したは理由は何?『人命救助』より優先される理由とは何?・この記事によると米軍からの連絡で自衛隊『戦闘機』2機が19:20に現着。ただし戦闘機なので救助もできず現場確認のみ。救助は翌日から。→米軍は既に救助ができる体制だったのに、米軍から連絡を受けた自衛隊はなぜ最初から救助体制をとらなかった?乗客乗員全524名もの『人命』がかかっているのに。戦争は夜間でも行われるので自衛隊は夜間でも行動する訓練はしているはずでは?
3、パイロットは最後のその時まで頑張っていたんだと思う。4系統ある油圧の全喪失。古今東西どれほど優秀なパイロットを乗せても無理だっただろう。人口密集地に落ちていればさらなる犠牲者数を数えていただろうし、海なんかに落ちてしまえば早々に機体が沈んだ可能性が高い。そうなれば4人も生き残れなかったかだろう。この2つをあの状態の中で避けられたのは大きい。
4、事故現場の村長が海軍兵学校の首席=東大の首席と変わらないか以上な人だったんですが、慰霊に来た昭和天皇陛下は1940年観艦式陛下御座乗艦に若い少尉なのに陛下お出迎えの栄誉に預かれた人だからで、あの時の居た少尉さんだと覚えておられたそうです。
当時の中曽根首相と同レベルか上が山奥の村長という日本国の懐の深さこそ、経済発展するだけの人材が東京や地方関係なく広く分散していた事の証ですな。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/516a504814e8bd7f611a343961b5a8fb16c0f964,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]