ミラノ・コルティナ五輪は2026年、イタリア北部の複数会場で行われた冬季五輪初の分散開催となった。大会運営には目立った問題なく終了したものの、「平和の祭典」としての限界が露呈した。開会式では、パレスチナ自治区ガザ攻撃に関連してイスラエル選手団へのブーイングや、米国政策への欧州の反発が際立ち、競技中にも米国選手の発言に対するトランプ元大統領の批判が波紋を呼んだ。さらにウクライナ侵攻問題を含む政治的緊張が五輪の場に影響を与えた。今後、同様の課題は継続して大規模大会を覆う見通しだ。

オリンピックが「平和の祭典」としての使命を掲げながら、政治の影響を排除できない現実は、深刻な課題として浮き彫りになっています。選手の競技だけに集中する環境が妨げられ、政治的対立が舞台を支配した光景は、スポーツの本質をゆがめかねません。
これには、オリンピックそのものの思想と現実との乖離が根底にあるといえるでしょう。
まず、IOCや各国政府は選手の競技環境に直接的な影響を与える政治介入を防ぐルールを明確化すべきです。次に、政治的意図が垣間見える開会式や宣伝の在り方を再構築し、「非政治的空間」としての大会を維持すべく努力する必要があります。そして、大舞台での表現や発言の自由と規制の線引きを議論し、明確かつ公正な対応方針を打ち出すべきです。
五輪が、人類の団結を象徴する場に回帰するためには、社会や政治の複雑性に簡単に耐えるだけでなく、むしろ競技精神の純粋性を高める方向性を堅持するべきです。五輪がこの理念を失えば、ただの「巨大イベント」に成り下がることは避けられないでしょう。競技の感動はそのまま、分断ではなく結束を祝う舞台であってほしい願いは、多くの人々の思いのはずです。
ネットからのコメント
1、確かに、ウクライナ選手の追悼ヘルメット問題や、アメリカのICE派遣反対デモ、イスラエル選手団へのブーイング、フィギュア団体戦で中国選手たちが日本の演技の観戦ボイコットをしたり、国同士の諍いが影を落とした場面も多々ありましたが、それ以上に、アスリートたちの国境を越えた友情やリスペクトに、五輪は平和の祭典だと、平和が一番大切だと改めて強く実感したオリンピックでした。
2、フィギュアスケートエキシビションでのジャッキー・チェンの登場の仕方が解せなかったですね。カザフスタンの金メダル選手パンダの格好にジャッキーがパンダのぬいぐるみと中国とカザフスタンの関係が正に政治色バリバリでした。ジャッキー・チェンは息子の逮捕の件で裏取引のようで共産支持派になってしまっているので昔の良かった香港スター時代ジャッキー・チェンの姿は無いですからねオリンピックの場でそういう姿は見たくなかったよ。
3、オリンピックが平和の祭典と言われたのも遠い昔、開会式ではイスラエル選手団へのブーイングが飛び交い、トランプ大統領は自国選手をSNSで負け犬呼ばわり、ウクライナ選手はヘルメットのデザインで失格となり…、もはや五輪は世界の分断をそのまま映し出す鏡のようになっています。2年後のロサンゼルス五輪もトランプ政権下での開催だし、こうした政治色の濃さは、しばらくは変わらないのではないでしょうか。
4、オリンピックでの政治アピールというとまずはナチスによるベルリンオリンピックですが、戦後最初に問題になったのは1968年メキシコ五輪の陸上男子200m表彰式で金のトミー・スミスと銅のジョン・カーロスが、黒手袋をはめた拳を掲げた抗議行為、ブラックパワー・サリュートをやったのが有名ですね。
確か映像の20世紀でも取り上げられていた。2人はこの行為により選手団から追放されて帰国してからも酷い差別に遭いました。銀メダルだった豪州のピーター・ノーマンも事前に彼らに話されて2人に賛同し、OPHRバッジを着用していたために同じく強烈な非難にあい、3人ともその後酷い人生を送っています。オリンピックに政治を持ち込むことには反対ですが、国同士が威信をかけて争うという一面がある以上、なかなか難しい問題ですね。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/3692ec522f4d5d12191c3d78842450f9453fde78,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]