事件概要:福島県浪江町出身の高木舞さん(28)は、15年前の東日本大震災と原発事故を経験し、その後避難生活を余儀なくされました。震災当日の彼女は中学1年生であり、自宅で震度6強の揺れを体験。翌日には原発事故による避難指示が発令され、家族4人で町外への避難を開始。その後、避難先での生活や原発事故への無理解に対する苦悩を抱えながら、ふるさとの喪失を感じ続けてきました。現在、復興途上の浪江町に通いながら、「浪江の魅力と震災の教訓を伝えたい」とする語り部として活動。月1回のペースで、自身の経験を通じて災害への備えやふるさとの大切さを訴えています。町の住民数は原発事故前の約1割に留まるなど、生活の再建に苦しむ状況が続いています。

コメント:震災による痛ましい経験と、それに伴うふるさと喪失感が深く描かれています。高木舞さんの歩みは、私たちが見過ごしがちな「目に見えない苦しみ」を鮮烈に示してくれるものです。
原発事故の影響で家族や友人との絆が断絶され、ふるさとが変わり果てていく現状は、どれほどの悲しみと寂しさをもたらしたことでしょうか。その中で彼女が語り部として過去と向き合い、「未来への教訓」を伝える選択をした姿勢には深い感銘を受けます。

震災は決して終わったものではなく、心の癒えない傷跡を多くの人に残し続けています。ただし、その現実を知ることで、私たちは自然を畏れ、明日当たり前のように存在している生活の大切さに気付かされるべきです。舞さんの希望にあるように、「自分たちの日常を大切にすること」に再び向き合い、この痛みを乗り越えていく力を共有することが、未来の社会をより強くする第一歩だと信じます。



ネットからのコメント
1、1979年に建設会社に就職して最初の赴任現場が浪江町のダム工事でした。地元の人も沢山現場におられて凄く親切にして頂いた記憶があります。半年くらいしかいませんでしたが忘れられない記憶です。早く元通りの生活が出来るようになる事をお祈りしています。亡母の母親の実家が福島で亡母もいつか行きたいと言っておりましたが、叶わず亡くなりました。いつかもう一度行ってみたいと思っています。福島の皆さん,何も出来ませんがいつまでも応援しています。
2、いわき市から6号線で北上したことがあります帰還困難区域を通過した時の情景は衝撃的でした震災から10年以上も経過してもまだこんな感じなんだ……、同じ日本でもまだこんな状況 言葉になりませんでした道の駅なみえで食べた〝なみえ焼きそば〟は美味しかった、お土産に買って帰りました 震災の記憶がある年代はもはや20歳以上の人になってます忘れ去られないように頑張ってほしい
3、南相馬市役所と取引があったので、浪江町はよく車で通りましたが、当時は外に出てはダメで、街が荒廃して緑に埋め尽くされていく様子がなんとも言えない気持ちにさせられたものでした。舞さんの生まれ故郷が原発事故で一変して、もうおそらくかつての様には戻ることはないでしょうけど、舞さんのように故郷やその街に暮らした人々を想って活動する人がいれば、忘れ去られることはないでしょう。しかし「被害者ぶっていると思われてしまうのではないかという気持ちもあった。」という言葉は重いですね。当時様々に陰口を叩く人がいましたが、被害者に罪はないのに隠さなければならなかったというのは本当にどうかと思う。福島第一の廃炉と街の復興が進むことを願います。
4、浪江町の復興支援のお手伝いしてましたが、浪江町の方々が、いかに町を、愛していたか。その思いは、忘れられません。海、山共に、美しい町。そこに、帰れ無い想いは、今でも、わすれません。浪江町の海、山は、宝物です。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/9673a4c08e2d871727a9049a56c8ca2331af483c,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]