日本国憲法の第十四条には、「すべて国民は、法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分、または門地により差別されない」と記されています。しかし、その平等の理念が確立される以前、かつての日本社会にはある身分制が存在し、穢多(えた)および非人(ひにん)と呼ばれる人々が社会的に差別を受けていました。彼らに対する差別は身分制が廃止された後も続き、現在も完全に解決されたとは言い難い状況です。
「穢多」と「非人」とは何かについて
江戸時代、幕府は武士、農民、職人、商人の四つの身分からなる制度を確立しましたが、その下に位置付けられ、「市外民」と称される「穢多」と「非人」の階層が存在していました。
「穢多」とは主に皮革業や屠殺業に従事する人々を指し、その仕事は当時の社会で「穢れ」たものと見なされていたため、彼らは厳しい差別を受けていました。この概念は非常に古いもので、奈良時代の記録にも「穢多」と似た身分の記載が見られます。彼らの居住地は一般的に村外れや川の近くなど、農業に適さない場所に限られ、その生活は辛苦に満ちていました。
一方、「非人」とは犯罪者や乞食、あるいは奇病患者など、様々な理由で社会から排除された人々を指し、その役割は死刑囚の処刑や遺体の処理など、他の人々が敬遠する仕事を担うことが多かったです。
江戸時代、「非人」には身分の流動性がある程度認められており、元の身分に戻ることができた例もありました。
「穢多」と「非人」に対する差別の根底には、日本古来の「穢れ」の概念が深く関わっています。「穢れ」とは、人間と自然との均衡が壊れた際に生じる不安を伴うもので、特定の人々や場所、事物に対して嫌悪感を抱き避けようとする心理が作られたものでした。この概念は新党や仏教にも取り入れられ、特に「殺生」は極端に忌まれました。
江戸時代、徳川幕府は支配体制を強化するため、穢多や非人に対する差別を法的に定め、彼らの社会的地位を固定化させました。この時期、農民一揆が頻発する中で、穢多や非人はしばしば幕府側から鎮圧協力を強いられ、それが逆に更なる憎悪や対立を生む原因となりました。
幕末になると、明治政府は近代化の波に乗り、この身分制を廃止すべく、1871年に「解放令」を発布しました。これにより、穢多・非人の身分は制度上廃止され、平民とみなされることとなりました。しかしながら、長年にわたり根付いた差別意識は容易に消えるものではなく、その後も経済的、社会的な差別は続きました。
特に都市部では、穢多や非人の出身者が住んでいた地域は「部落」として知られ、大規模な差別が展開されました。
部落の存在は新たな問題を引き起こし、経済的困窮により再び底辺層へと追いやられる人が多くいました。特に関西地方では「同和地区」と呼ばれる部落地域が目立ち、その差別の歴史が一層深刻化しました。
20世紀に入ると、被差別部落の人々は自らの地位向上を目指して運動を始めました。1922年には全国水平社が創設され、部落差別の撤廃を求める活動が全国へ広がりました。しかし、戦時中の弾圧により運動は一旦消滅し、その後も新たな法律と活動の再興が必要とされました。
1969年、「同和対策事業特別措置法」が制定され、部落問題の解決に向けた具体的な施策が次々と実施されました。これは部落地域の生活環境の改善や教育、職業の安定を図るためのもので、その効果は一定の成果を挙げました。
それでもなお、差別は依然として根強く残り、現在に至るまで結婚や就職、日常生活の場面で差別意識が続いていることは否めません。インターネットを通じた差別情報の流布など、新たな形での差別も発生しており、それに対する対策が求められています。
私たち一人一人がこの歴史を理解し、差別をなくすために何ができるのか考えることが求められています。コメント欄で皆さんのご意見をお聞かせください。
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