"返せなかった六百二十円" 第13話
窓のこちら側と向こう側
が来る頃、神田の町はしずついつもの顔に戻っていた。通りの先には品物が並び、印刷所の窓からは械の音が聞こえる。信用の扉も毎朝いた。しかしよりと同じではない。のを通る々は折を止め、営業と続きの掲示を自分の目で確かめていた。
美佐は本の預事務部で働き始めた。窓かられた机に座り、支から送られてくる申や説記録を理する仕事だった。誰かの顔を直接見る会は減った。代わりに、つの記録が何のを通って客へ返されるかをった。受付と説したの名が欠けていると、から確認するだけで半が消える。いてある「済」の印が、何を確かめた印なのか分からないこともあった。
美佐は式の案を度作り直した。最初は欄がすぎた。次は窓で記入するにはがかかりすぎた。度目は、受付、請求額、実際に扱った額、説した、次に確認するだけをきく分けた。司は「した夫には見えないな」と言った。美佐は「した夫ではなくても、ないと困ることがあります」と答えた。司はそのを見て、試しにいくつかの支で使ってみようと言った。正式採用が決まったわけではない。それでも、用が枚へんだ。
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父の印刷所では、納帳や領収のさな注文が増えていた。きな広告の仕事は以ほど来ない。けれど、薬種商からの袋や豆腐の値札、呉の伝票が順に入るようになった。は仕事の種類ごとに活字を分け、の組版の順を夫した。井は母の病を続けながら、料を決まったに受け取れるようになった。戸倉は週の約束を守りながら別のの仕事もしていた。以なら、源吉はそれを面くわなかったかもしれない。今は「働く所はつでなくてもいい」と言った。
印刷所の奥には、売った断裁があった所にさな作業台が置かれた。は、あの械を最に分解したのことを今もいすという。きなの仕事が来るたび、『まだ置いてあれば』とうこともある。父は『失くした分だけ、受けられる仕事も変わる』と言った。きさを競う商売から、毎同じ町へ届けられる仕事へ。縮んだようで、初めて見えるものもあった。
は作業台のへ、きな械のに使っていた古い定規をしまっていた。『いつか、ちゃんと買い直せるが来たら使う』と言う。父は笑ったが、買い直す約束まではしなかった。
ある、川が帳へ来て、しいの見本を見せた。以のような掛け売りには戻さず、必な分だけ現と引き換えにする約束を続けるという。
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源吉は「そのほうが、互いに眠れる」と答えた。川は笑った。「眠れるだけじゃ商売になりませんよ。でも、あのみたいなのは度と御免です」。
父はから引きしたの部を、別の取引先への支払いに回した。残りをの運転資として置いた。美佐が「全部をへ預け直さないの」と聞くと、父は「を信じないからじゃない。元にるがいくらか、今は分かるからだ」と言った。そしてにも必なは預けるつもりだという。「取引を続けながら、確かめる。そういう付きい方を覚えた」。
文子からが届いた。坂係が張所の責任ある役を任され、窓の受付控えを続けているという。森崎は別の部署に移った。の対応をめぐって今も話しいがあるともいてあった。美佐は読み終え、机の引きしへをしまった。過をすべて終わった話にしたくはなかった。
その週末、父のにの若い女性がやってきた。くのさな仕で働き、最独したばかりだという。初めて客に渡す領収を注文したいが、何をどうけばいいか分からない。が値段を伝えると、女性はし困った顔をした。「そんなにたくさんはりません。枚あれば、当分ります」。以なら数の仕事は断ったかもしれない。だがは余りを使ったさな用を提案し、井が「次の印刷のに緒に刷ればくできます」
と言った。
美佐は女の元にあった銭を見た。以の自分なら、数字がうかどうかだけを考えただろう。今は、枚の領収が必な商売のきさをい描けるようになった。女性は注文をき、受取を確認すると、ほっとした顔で帰っていった。
夜、が「姉さん、本の仕事は面いの」と聞いた。美佐は考えてから答えた。「面いというより、怖いわ。たったつの空欄で、が困ることがあるから」。は「活字をつ違えるのと似てるね」と言った。源吉が笑った。「違うところもある。こっちは刷り直せても、が待ったは刷り直せん」。
美佐はの父の顔をいした。「おは、俺がいつまで待てるかっとったな」。その言葉を忘れるは来ないだろう。父もまた、娘が当何を怖れていたのか、今では以よりし分かるのかもしれない。はあのについて毎話すわけではない。ただ何かを決める、必ず先に相へ尋ねるようになった。
の終わりがづいたある、美佐の勤める部署に、支から式の使い勝についての見が届いた。ある老が「説された付がここに残ると、で息子に話しやすい」と言ったという。別の客は「数字のが分からない」と指摘した。美佐はぶより先に、直すべきところへ赤鉛を引いた。
何度でもを入れられるのがのよさだ。失敗したがなくなるわけではないが、次のをし良くすることはできる。
帰り、神田の通りにはの匂いがした。のにはもうい列はなかった。美佐は窓のを覗き、かつて自分が座っていた席を見た。若い員が客の通帳を受け取り、何かを説している。客は度聞き返した。員は面倒そうな顔をせず、を指して言葉を繰り返した。
美佐はそのまま歩き、父の印刷所へ向かった。ではが輪転の調子を見ていた。父が「今も遅かったな」と言い、湯みを差しした。美佐は受け取り、机に置かれたしい注文を見た。仕事の内容、納期、代、確認するの名。さな活字が、はっきり並んでいた。
「あら、確認欄が増えたのね」
「ああ。聞いた、聞かないで揉めるのは、もう懲りた」
源吉は笑った。美佐も笑った。
械がきす。刷りがった枚をが持ってきて、父が目を通す。それから美佐にも差しした。が確認して初めて、次の枚が械へ送られる。
あの、娘は父のだけを返さなかった。その過ちを消すことはできない。けれど、それ以来、父と娘は何かを相に渡すに、いったんを止めるようになった。
そして、いてある言葉を確かめたで、ようやくへむのだった。
史実と創作について
本作は、昭()の融恐慌を背景にした創作説です。徳田美佐、徳田源吉、、信用および作の舗・取引・関係は架空のものです。実するや関係者の為を描写したものではありません。
史実の背景として、の取付けの拡、同の融の再燃、に発令された週の支払猶予令(モラトリアム)、の解除、急増した現需に対応するための裏百円券を参照しました。物語に登する個別の払戻続き、内の報告や印刷受注の経緯はフィクションです。