事件概要:
広島の河田和子さん(93歳)は、13歳の時に広島原爆で被爆し、その体験を広島皆実高校の生徒たちに語りかけました。80年前、彼女は学徒動員で工場にいた際、B29の飛行機雲を見上げた直後に原爆を経験しました。爆心地から2.5キロ離れた工場で被爆し、疎開先で無事だった母親と再会。
しかし、その後、家族を失い、原爆での恐怖や悲しみを抱え続けました。戦後80年を迎えた現在、彼女は原爆の実体験を語り、平和の大切さを訴え続けています。
コメント:
河田さんの体験を通じて、戦争の恐怖とその後の喪失がいかに深いものであったかが浮き彫りになります。80年を経てもその記憶が色あせることなく、今も心に深く残っていることは、戦争の恐ろしさを改めて我々に教えてくれます。若い世代がこうしてその話に耳を傾け、共感し、学び取ろうとしている姿勢は大切です。平和の大切さを声高に叫ぶ河田さんの姿勢から、私たちも未来に向けて、無駄な戦争が二度と繰り返されないように努めなければならないという強い使命感を感じます。
ネットからのコメント
1、私の祖母も16歳で爆心地近くの家から鉄砲を作る工場へ登校した時に被爆しました。早番だったため無事でしたが、遅番だった学校の生徒は駅で被爆し火傷を追った状態だったそうです。その日のうちには家に戻れず、翌日に帰宅。途中足に当たった電柱かと思ったものは人だったそうです。家には母がいたはずですが、骨も見つからないような状態。水道局で働いていた姉も行方不明のままで、その日から1人で生きることになりました。祖母の手記は平和公園に寄贈していますので、読んでいただけると嬉しいです。
2、たった80年。たった80年で核が安上がりなんて言葉を使う人たちも出てきた。核の恐ろしさを知り言葉に出来るのは日本人しかいないのに。昔から原爆資料館や特効基地など、戦争の無意味さを見せられてきた自分は、こんなにも簡単に世の中が戦争をしたい国や人に影響をうけることにまだ80年なのにと憤りを感じる。日本人は被害を盛ったり大きく言ったりはしないし、どちらかというと、現実を伝える。恐ろしさは海外には伝わってないと思う。
3、戦後80周年ということもあり年始には、アウシュビッツ収容所をめぐっても解放80周年式典がおこなわれていました。
80年が経つ中で、戦争への記憶も風化していいています。そういった意味でも、このような生の記憶を残していくことが重要と思われます。また、戦争の悲惨さと同時に、誰が悪いのかではなく、なぜ戦争が起きたのか、防ぐためにどのようなことができるのかを学び、考えていくことが現代の我々にできることでしょう。
4、戦後70年は大きな節目だったと思う。戦後80年になり、兵士として戦地に赴いた人はほぼ居なくなり、同時代史から歴史へと変わりました。戦争の悲惨さを肌身で体験した世代が歯止め役となっていましたが、そういう世代が表舞台から去った事で、安保条約で戦争できない国から戦争ができる国へと変わっていくのでしょう。できることなら辞めた方が良いと思いますが、これから国を背負っていく世代がそれを選択するのであれば、それはそれ。せめて国民、政治家は過去の戦争歴史を学んだ上で進んでいってほしいものです。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/1097160f998451a66f61c79c723b03bbc7fae8ed,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]