"退職祝いは離婚届" 第1話
「これからは、でゆっくりしよう」
黒田俊夫がそう言った、妻の真由美は笑わなかった。64歳まで勤めた建設会社をこので退職し、娘夫婦が用してくれた祝いの寿司を囲んでいるというのに、真由美は湯呑みに茶を注ぎながら「そうね」とく答えただけだった。
俊夫はし満だった。38ほとんど仕事筋でやってきたのだから、今くらい妻から「お疲れさま」と労われてもいいとっていたし、娘の彩が帰ったあとには、これからの旅や老についてで話すつもりでもいた。
「まずかな。お、昔からきたいって言ってただろ」
俊夫が言うと、真由美のが瞬止まった。の頃から流氷を度見てみたいと言っていた妻のことを、俊夫はちゃんと覚えているつもりだった。
「流氷はよ」
「じゃあ来だな。そのには京都でもいいし、で温泉回るのもいい。はあるんだから、焦ることないよ」
真由美は俊夫を見た。その目に嬉しさより疲れのようなものが浮かんでいることに気づいたが、退職のだから互いに傷になっているのだろうと、俊夫はく考えなかった。
事のあと、真由美は器を片づけた。俊夫も伝おうとちがったが、「今はいいから」と言われたので、素直にソファへ戻り、会社からもらった束を眺めながらビールをけた。
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「、朝ゆっくりでいいから楽だな」
俊夫は笑った。
「俺、何に起きてもいいんだよな。朝飯も別に7じゃなくていいぞ」
台所からの音が聞こえていたが、返事はなかった。俊夫はテレビをつけ、の気予報を見ながら、妻もそのうちしい活に慣れるだろうとった。
数分、真由美が戻ってきた。にはい封筒と、冊のいファイルを持っていた。
「俊夫さん」
妻が名で呼んだので、俊夫はし驚いた。普段は「あなた」と呼ばれることがく、改まっただけ昔のように名を呼ばれる。
「何だよ」
「話があります」
真由美は向かいの子へ座り、い封筒をテーブルへ置いた。からてきたを見た瞬、俊夫はを理解するより先に、類の番に印刷された文字を読んでいた。
婚届。
「何だ、これ」
自分でも驚くほどい声がた。真由美は目を逸らさず、「いてほしいの」と言った。
俊夫はしばらく笑うこともることもできなかった。退職したそのに妻が婚を言いすなど、悪い冗談にしかえなかったし、彩が何か仕掛けたのではないかとさえ考えた。
「何かってるのか?」
「ってはいない」
「じゃあ何で婚なんだよ」
「、このをます」
その言で、俊夫は初めて真由美のろに置かれている旅鞄に気づいた。夕のにはなかったはずなのに、いつのにか廊から運んできたらしい。
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「どこへくんだ」
「曇野」
「何しに?」
「しばらくむの」
真由美の母方の伯母が野県曇野にんでいたことはっていた。伯母はにくなっており、古いを真由美と従姉妹が相続したという話も聞いた覚えがある。
「何で急にそんなところにむんだよ。あるだろ、ここに」
「急じゃないの」
真由美は静かに言った。
「私のでは、もうくらいから考えてた」
俊夫はを疑った。といえば、自分は取締役にがる直で仕事が最も忙しかった期で、妻が婚を考えている気配など度もじたことがなかった。
「何で言わなかった」
「言ったよ」
「いつ」
真由美はし笑った。その笑い方が妙に寂しかった。
「の。覚えてない?」
俊夫は記憶を探した。
いせない。
「『これから先、どうする?』って聞いたの」
「そんな話したか?」
「したよ。あなたは聞見ながら、『退職したら考えよう』って言った」
俊夫は黙った。そう言ったような気もしたが、夫婦の老について聞かれたのだとっていたし、当は仕事のことでがいっぱいだった。
「だから退職しただろ。これから考えればいいじゃないか」
俊夫は当然のように言った。
ところが真由美は、ゆっくり首を振った。
「もう待たないって決めたの」
「何をだよ」
「あなたが暇になるのを」
俊夫は言葉を失った。
真由美は責めるような調ではなかった。