"消えなかった500円" 第1話
昭42、京の側には、まだいくつもの町が並んでいた。朝の7を過ぎる頃になると、弁当箱を自転の荷台にくくりつけた男たちが細いをき交い、あちこちのから械の回るい音が聞こえ始めた。
佐々正雄が勤めるも、そのつだった。鉄の切りと械油の匂いが染みついたさなで、正雄は朝から夕方まで旋盤のにち、図面を見ながら属部品を削っていた。
に帰る頃には、紺の作業着の袖が黒く汚れていた。はそんな夫のを毎晩たらいで洗いながら、翌朝にはできるだけ油染みが目たないよう、物干し竿へ丁寧に広げていた。
佐々は、畳半と畳のしかない借で暮らしていた。台所は狭く、玄関をければ奥まで見渡せるようなだったが、正雄と、それに学の娘2が暮らすには、なんとかりていた。
女は学5、次女は学2だった。学から帰ると2でちゃぶ台を囲み、宿題をしたり、広告の裏に絵を描いたりしていた。
余裕のある暮らしではなかった。
米は粒でも残さない。鉛はくなるまで使い、靴に穴がけばが夜に繕った。正でもなければ牛肉が卓にることはなく、魚もそのの売りを見て決めていた。
それでもは、自分たちを幸だとはっていなかった。
広告
正雄は無だったが、働き者だった。料を持ってみへ消えることもなく、休みのには壊れた子を直し、娘たちの自転の空気を入れてやった。
末になると、にはつの切な仕事があった。
料の計算だった。
当は振込ではない。の事務員から、現の入った茶い封筒をずつ渡される。
正雄は料の夜になると、帰宅して作業着を脱いだあと、内ポケットからその封筒をした。
「はい」
「お疲れさま」
は両で受け取り、ちゃぶ台のへ置く。
娘たちはそのだけしれた所に座っていた。のの話を子どもに聞かせまいと、がそうさせていたのである。
封筒から札を取りす。
枚。
枚。
枚。
は指先をし湿らせながら、何度も数え直した。
賃。
米代。
噌と醤油。
学の集。
気代。
代。
になれば練炭代も必になる。
さらに、突然の病気や冠婚葬祭に備え、さなブリキ缶へしずつ貯めていた。
「今は美代子の代があるから、しきついね」
がそう言うと、正雄は聞を広げたまま答えた。
「俺の昼飯はいい」
「いいって、どうするの」
「梅干しでも入れといてくれ」
「そんなので働けるわけないでしょう」
それでも正雄は、それ以何も言わなかった。
そういう男だった。
数がない。
自分から欲しいものを言うこともない。
広告
も結婚して10以になり、夫の性格には慣れていた。
ところが、そのの。
料袋を数えていたのが止まった。
「……あれ?」
もう度数える。
やはり同じだった。
は封筒のを覗き、机のまで見た。
「あなた」
「何だ」
「今、料これだけ?」
正雄は聞をめくった。
「ああ」
「会社から聞いてた額より、500円ないんだけど」
その、正雄の指がほんのしだけ止まった。
だが、すぐ聞をめくる音がした。
「ちょっと使った」
「何に?」
「ちょっとだ」
は夫を見た。
「500円も?」
正雄は答えなかった。
聞の向こうに顔を隠すようにしている。
はしばらく待ったが、それ以説する気はないらしかった。
仕方なく、そのはそのまま計簿をつけ直した。
500円。
今ならさな額にえるかもしれない。
だが、その頃の佐々にとって、500円は決して軽いではなかった。族4が銭湯へ何度もける。娘のノートや鉛も買える。卓のおかずを数分増やすこともできる。
は計簿の数字を見ながら、さく息を吐いた。
正雄が自分のために使ったのなら、それ自体を責めるつもりはなかった。
毎、朝から晩まで旋盤ので働いている。
男にだって遣いくらい必だ。
ただ、正雄はそれまで自分から500円も使うようなではなかった。
翌。
正雄が料袋を持って帰った。
はいつものように数えた。
そしてまた、を止めた。
500円。
やはりりない。