"7階に戻るな" 第1話
恵子、70歳。夫の優郎に先たれて6、私は都に建つ14階建てのマンションの7階で、暮らしを続けていた。朝は6半に起きて仏壇のを替え、午になると所の商へ買い物にるという、計の振り子のように規則正しい毎だった。
そのの夕方も、私は両にスーパーの袋を提げてマンションへ戻った。の袋には週末に遊びに来る孫娘の好きなりんごと牛乳、には鶏肉と根、それから油揚げが入っていた。今夜は優郎が好きだった鶏根を作ろうといながら、私はエントランス奥のエレベーターへ乗り込んだ。
7階のボタンを押すと、属の扉が静かに閉まり、箱はゆっくり昇を始めた。帰ったら米を研ぎ、根を茹でして、そのに仏壇へしいを供えようなどと考えていた。あまりにも普通で、数分に自分のがきく変わるなど像する余さえないだった。
4階で、エレベーターが止まった。扉の向こうにっていたのは、数かに隣の702号へ越してきた誠という68歳の男性だった。元会計士だと聞いていたが、廊で会えば挨拶をする程度で、これまでまともに話したことはほとんどなかった。
しかし、そののさんはらかに様子がおかしかった。いつも丁寧に撫でつけている髪は乱れ、額にはびっしりと汗が浮かび、呼吸もい階段を駆けがってきたように浅く速かった。
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私が「さん、丈夫ですか」と声をかけても、彼は答えず、背を度振り返ってから逃げ込むようにエレベーターへ入ってきた。
扉が閉じると、さんは私ではなく、井くに設置された監カメラを見げた。その線には、誰かに見張られている特の怯えがあり、私は何も聞けなくなった。やがて彼は震えるでスーツの内ポケットを探り、さくつ折りにしたを私の買い物袋のへそっと置いた。
私は戸惑いながらをいた。そこには急いでいたらしい乱れた文字で、い文が記されていた。
《病気のふりをして、次の階でりてください。絶対に7階へ戻らないで》
が分からず顔をげると、さんはすぐ差し指を唇へ当てた。さらに監カメラを度見てから、自分の胸を押さえ、苦しそうに顔を歪める仕をする。演技をしろと言っているのだと理解した瞬、私の背筋をたいものがった。
5階の表示がづいた、エレベーターのから何かいものがぶつかるような音がした。さんの表が変し、私の腕をくつかんだ。その指先は驚くほどたく、これが冗談でも老のい込みでもないことだけは、嫌でも伝わってきた。
私はの買い物袋をへ落とした。牛乳パックが転がり、りんごがつ、つとエレベーターのをねる、胸を押さえて壁にもたれた。
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「う……胸が」とにすると、自分でも驚くほど々しい声がた。
「奥さん、丈夫ですか!」
さんは急に声をし、到着した5階で扉ボタンを押し続けた。扉がくと彼は私を支えるふりをしながら廊へ押しし、「救急を呼びますから、そこで横になって」と監カメラにも聞こえるような声で叫んだ。
私は廊へたものの、さんはエレベーターからりなかった。振り返った私に向かって、彼はさく首を横に振り、それから唇だけをかした。
「って」
その表を見た瞬、私は自分だけ逃がされたのだと悟った。何のために彼が残るのか、誰を待っているのかは分からなかったが、問い返しているがないことだけは分かった。
扉が閉じる直、さんの背へ、廊側から柄なが滑り込んだように見えた。次の瞬には属の扉がを隠し、エレベーターは再びへき始めた。
数秒、から鈍い衝撃音が響いた。続いて何かが壁へぶつかる音、い鳴り声、そしてい鳴が聞こえた。
私はった。買い物袋も、に散らばったりんごも、そのに置いたまま非常階段へび込み、すりへしがみつくようにしてへ駆けりた。70歳の自分にあれほど速くをかす力が残っていたとは、そのまでらなかった。