"吹雪の一杯" 第1話
返済期限まで、あとヶだった。
112の朝6半。野県部のあいにあるさな温泉旅館「灯里館」の帳で、富美子は古い卓を何度も叩いていた。売、材費、灯油代、源泉設備の維持費、固定資産税。計算する順番を変えても、使うペンを変えても、最に残る現実だけは変わらなかった。
1500万円。
、老朽化した根と温泉配管を直すために借り入れただった。夫の隆がくなったあとも返済を続けてきたが、団体旅は戻らず、の常連客も、またと姿を見せなくなった。このを何とか乗り切れても、4末の括返済には到底にわない。
帳簿の側には、い封筒が伏せてあった。表には「辰リゾート発株式会社」と印刷されている。はと旅館の買い取り提案で、提示額は1780万円。借を清算し、税や数料を払えば、元には老を支えるには許ない額しか残らなかった。
それでも、周囲のはをそろえて言った。
「借が消えるだけでもありがたいじゃないか」
朝8になる、その考えを押しするように話が鳴った。受話器を取るから、富美子には相が分かっていた。き夫・隆の従弟にあたる正志だった。
「富美子さん、さんから聞いたよ。まだ返事してないんだって?」
「どうして正志さんがさんと話してるの?」
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「親族にも応説しておきたいって言うからさ。それより、もう分やっただろ。隆兄さんがくなってだぞ。70歳でで旅館を続けるなんて、普通に考えたら無理だよ」
正志の声には、配と苛ちが半分ずつ混じっていた。悪だけのではない。それが分かっているからこそ、富美子は余計に疲れた。
「借が返せなくなってからじゃ遅いんだ。隆兄さんだって、富美子さんがこんなに苦労することは望んでないよ」
「隆が何を望んでたか、正志さんに分かるの?」
からた声は、自分でも驚くほどたかった。正志は瞬黙り、やがて「そういうじゃない」とさく言ったが、富美子はそれ以話さず受話器を置いた。
帳の正面には、30ほどに撮った夫の写真が掛かっている。かきの途なのだろう、隆は腕まくりをしたまま笑っていた。決して枚目ではなかったが、笑うと目尻にいしわが寄った。
「お父さん。みんな、売れって言うよ」
当然、返事はない。
の11。隆は朝を終えたあと、裏庭の囲いを直しにき、その夜に胸の痛みを訴えた。救急で運ばれたが、翌朝には帰らぬになった。そののまで「になったら客をつだけ直そう」と言っていたが、次のにはいなくなった。
富美子はちがり、にを添えた。
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さなのイヤリングが指先に触れる。結婚30目の、隆が珍しく町まででかけ、照れくさそうに差ししたものだった。
――派なのは似わんから、これくらいでちょうどいいだろ。
褒めているのかけなしているのか分からない言い方に、当の富美子はずいぶん腹をてた。今では、そのぶっきらぼうな声さえ恋しかった。
囲炉裏にを入れる。
灯里館には8つの客があるが、このの予約は件もなかった。それでも富美子は毎朝、炭を起こした。誰も来ないにを焚くのは無駄だと分かっている。それでも、もし予約もせずをってきたがいた、え切った玄関ではなく、赤いが迎える宿でありたかった。
台所の棚には、噌壺がいくつも並んでいる。その番奥に、さな茶い壺があった。隆と最に仕込んだ噌だった。
くなるヶ、で豆を煮、麹と塩を混ぜた。隆は蓋を閉める、「今のは絶対うまい」と子どものように得げな顔をした。けれど、でそのを確かめるは来なかった。
富美子は、その壺を度もけていない。蓋を取れば、隆と過ごした最のまでべ終えてしまうような気がしたからだ。
昼を過ぎると、空が急に暗くなった。夕方からになるという予報だったが、ったよりくの向こうからのがりてきている。
富美子が玄関脇のかき具を確認していると、引き戸がからりと音をてた。