"愛人旅行の代償" 第8話
秀治からの連絡は、そのもしばらく続いた。
最初はりだった。
「おのせいで全部めちゃくちゃだ」
「織までいなくなった」
「定のを壊した責任を取れ」
美はそのすべてに直接返事をしなかった。必なことは結と相談し、面で返した。の言葉には反応しない。秀治がどれだけ鳴ろうと、もう美の活を揺らすことはできなかった。
やがて秀治の言葉は、りから音に変わっていった。
「む所が決まらない」
「退職がったより減った」
「織に連絡してもない」
「しだけ話せないか」
美はその文面を見ても、昔のように胸を痛めることはなかった。
もちろん、36を緒に過ごした相だ。完全に何もじないわけではない。けれど、それは同とは違っていた。
秀治は失ったのではない。
自分で捨てたのだ。
妻を捨てようとし、を軽んじ、退職を自分だけのものだと言い、織との未来だけを見た。その結果、帰る所を失った。
美が奪ったのではない。
秀治が、自分のでそこかられたのだ。
美はしいまいに移った。
広くはないが、当たりの良い部だった。ベランダにはさな鉢植えを置いた。朝になると、カーテン越しにやわらかなが入り、部全体が静かにるくなる。
ある、結が訪ねてきた。
「お母さん、し落ち着いた?」
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「ええ。まだ慣れないけれど、静かでいいわ」
美はお茶を淹れた。
以のでは、秀治の湯呑み、秀治の箸、秀治の好みをいつも考えていた。今は、自分の好きな茶葉を選び、自分のみたい濃さで淹れる。
それだけのことが、こんなに自由だとはわなかった。
結は部を見回した。
「いい部だね」
「そう?」
「うん。お母さんの所ってじがする」
その言葉に、美はし笑った。
自分の所。
それはい、ありそうでなかったものだった。
にいたのに、自分の居所ではなかった。
妻という役割ので、母という役割ので、を守るとしてそこにいただけだった。
けれど今は違う。
この部では、美が何をべてもいい。いつ寝てもいい。誰の嫌をうかがう必もない。古い具を使い続けても、しいカーテンを買っても、誰にも文句を言われない。
美はベランダの鉢植えにをやった。
さな芽がていた。
「これから、どうするの?」
結が尋ねた。
美はし考えてから答えた。
「まずは、ちゃんと暮らすわ」
「ちゃんと?」
「ええ。誰かのためだけじゃなくて、自分のために」
結はしたように笑った。
「それが番だね」
数、秀治から最のようなメッセージが届いた。
「やり直せないか」
美は画面をしばらく見つめた。
そのい文の向こうに、かつての夫の姿が浮かんだ。
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会社にく背。卓で黙ってご飯をべる横顔。定の、を連れて帰ってきた勝ち誇った顔。そして更ので座り込んだ姿。
美は返信を打った。
「あなたはを失ったのではありません。自分で帰る所を捨てたのです。私は私のをて直します」
送信すると、胸の奥が静かになった。
りが消えたわけではない。
傷がなかったことになるわけでもない。
けれど、そこにもう秀治の居所はなかった。
美はスマートフォンを伏せ、窓のを見た。
夕暮れの空が、淡いに染まっている。くで子どもたちの声が聞こえ、どこかのから夕の匂いが流れてきた。
かつての自分なら、その匂いに急かされるように台所へっただろう。
秀治の好物を考え、噌汁の具を選び、嫌を損ねないように卓をえたはずだ。
けれど今、美は急がなかった。
自分のために、ゆっくりご飯を炊けばいい。
べたいものを作ればいい。
誰かにてけと言われることも、誰かに奪われることもない所で、これからのを自分のでえていけばいい。
美はさく息を吐き、台所へ向かった。
鍋にを入れ、をつける。
湯気がちるまでの静かなに、美はそっと呟いた。
「ここから、もう度始めよう」
その声は誰に聞かせるためでもなかった。
けれど確かに、美自のに届いていた。