"愛人旅行の代償" 第2話
このは、私のを終わらせに来たのではない。
私が自分のを取り戻すきっかけを、わざわざ持ってきたのだ。
その夜、美はまだ何もかなかった。
けれどのでは、すでに最初のをき始めていた。
卓のに置かれた婚届は、夕の湯気が消えてからも、そこだけたくく残っていた。
秀治は子に腰をろし、を組んだ。まるで自分がすでに勝ったとでも言いたげだった。織はそのしろにち、部のを品定めするように線をかしていた。
美は湯呑みにお茶を注ぎ、秀治のに置いた。
「判を押さないとはどういうだ?」
秀治の声がくなる。
「言葉のままよ。旅は止めない。でも、婚に同した覚えはないわ」
「面倒な女だな」
秀治は舌打ちをした。
「は俺が稼いだ。退職も俺のものだ。何に使おうが俺の勝だろう」
美は茶碗を持ちげたが、には運ばなかった。
「あなたがそうっていることは分かったわ」
自分のが震えていないことに、美自がし驚いていた。
36。
夫の事を作り、計を守り、冠婚葬祭の付きいも、親戚関係も、所との関係も、ずっと美がえてきた。秀治が仕事に集できたのは、のを美が支えてきたからだった。
けれど秀治にとって、それはではなかったのだろう。
広告
見えないものは、しないものとして扱われる。
事も、気遣いも、も、黙ってみ込んだ言葉も。
織が困ったように首を傾げた。
「美さん、そんなふうにを張ると、秀治さんが苦しむだけですよ」
美は織の方を見た。
「苦しむ?」
「はい。もう気持ちは決まっているんです。奥様がしてあげるのも、優しさだといます」
優しさ。
その言葉ほど、使うによってが変わるものはない。
噌汁なら腐っていれば匂いで分かる。けれどの本音は厄介だ。きれいな言葉ほど、にひどく濁っている。
美は静かに言った。
「織さんは、ずいぶん秀治のことを分かっていらっしゃるのね」
織はし誇らしそうに微笑んだ。
「はい。秀治さんは、本当はとても繊細な方ですから」
美はわず笑いそうになった。
繊細。
このは、秀治のどこを見てそう言っているのだろう。
夕の席にを連れてきて、退職で旅へくと宣言し、妻に婚届を置いててけと命じる男を、繊細と呼ぶのなら、世のの鈍という言葉はどこへくのだろう。
秀治は勝ち誇った顔で封筒を指で叩いた。
「帰ってきたら、こののことも理する。織とむには古すぎる」
美はゆっくり顔をげた。
「このを、あなたが理するの?」
「そうだ。夫婦のだろう」
秀治は当然のように言った。
広告
「古い具もいらない。織と暮らすなら、もっとしいものに替える。俺の退職があるうちに、全部やり直す」
織は黙って聞いていたが、否定しなかった。
むしろ、それが当然という表だった。
美は湯呑みをそっと置いた。
「いつ帰るの?」
「3だ。聞いてどうする」
「確認よ。旅のにちと、あなたが何を言ったか」
秀治はで笑った。
「好きに覚えてろ。どうせおには何もできない」
美はその言葉を、ゆっくり胸のにしまった。
「そうね。今は何もしないわ」
「今は?」
「ええ。今は」
美はそう言って、めた煮魚に箸を伸ばした。
はほとんど分からなかった。けれど、に運ぶ作だけは普段通りにした。鳴れば、秀治はきっと言うだろう。
「ほら見ろ、やっぱりおはだ」
泣けば、織はきっと勝ったように微笑むだろう。
だから、美は黙ってべた。
織はしたように笑い、秀治は子にふんぞり返った。
2には、美の沈黙が負けに見えていた。
けれど違った。
それは、記録を始めるの静けさだった。
事の、美は洗い物をした。をし、皿の汚れを落とし、布巾で気を拭う。洗い物は裏切らない。汚れた分だけ落ちる。よりずっと正直だった。
リビングでは、秀治と織が旅の話をしていた。
「向こうに着いたら、まずの見えるホテルね」
「退職があるから、今回はし贅沢しよう」
「帰ったら、このもく片づけないと」
美は蛇を止めた。
そしてので、もう度確認した。