"空っぽの珈琲サーバー" 第1話
「なあ、のぞみ。今のコーヒー、いつもと違うけど豆を変えた? にみがあるね」
仕事から帰ってきたばかりの私に向かって、夫の達は妙に満そうな声でそう言った。
私は玄関で靴を脱ぎ、買い物袋を片に持ったまま、ゆっくり顔をげた。夕方ののには、洗濯物の湿った匂いと、昼に誰かが使った器の残りが混じっていた。私は朝からパートを2つ回り、そのにスーパーへ寄り、ようやく帰宅したところだった。
はく、肩には鈍い痛みが残っていた。
それでもに入れば、私には休むなどなかった。流し台には昼の器が残っているはずで、義母の着替えも確認しなければならない。夕飯の支度もある。の買いしのメモも作らなければならない。
そんな私に、達はのんびりとコーヒーのを言ったのだった。
達は、昼にコーヒーをむのが毎の習慣だった。目が見えなくなってからも、その習慣だけは変わらなかった。
決まった所に置かれたコーヒーサーバー。決まった棚にあるカップ。決まった位置にあるスイッチ。達は杖を使いながら、のの線だけは体で覚えていた。
「今の豆は、しりが違ったな。のより苦が柔らかい」
ソファに座ったまま、達は得そうに言った。
私は返事をしようとして、ふと台所の方へ目をやった。
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そして、を止めた。
コーヒーサーバーが見えた。
いや、見えたというより、そこにある“違”に目を奪われた。
私は買い物袋をそっとに置き、台所へ歩いた。達に気づかれないように音を抑えながら、サーバーのにつ。
ガラス容器のは空だった。
底にコーヒーの跡すらない。湯気もない。抽された形跡もない。
私はゆっくりと豆の容器を確認した。
空っぽだった。
蓋をけると、乾いた空気だけが先に触れた。いつもならし残っている焙煎豆のりすらなかった。
そこで私はいした。
昨、息子の信吾にコーヒー豆の買い物を頼んでいた。学帰りにスーパーへ寄って買ってきてほしいと伝えたのだ。
けれど信吾は、学らしくうっかりしたところがある。ゲームや友達との約束にになると、頼まれたことを忘れてしまうことがあった。
きっと今回も忘れたのだろう。
その瞬、私ので何かが静かに音をてた。
達は今、コーヒーをめるはずがない。
それなのに、のを言った。
豆を変えたかと聞いた。
みがあるとまで言った。
私は空っぽのコーヒーサーバーを見つめたまま、さく息を吸った。胸の奥がえていく。疲れのせいではなかった。い、見ないふりをしてきたものが、突然目のに形を持って現れたような覚だった。
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「……そういうことか」
私は誰にも聞こえないほどさな声で呟いた。
達はソファからこちらに顔を向けた。
「どうした?」
私は表をえ、何事もなかったように振り返った。
「そうかもね。信吾が選んだ豆だから」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
達は納得したように頷いた。
「そうか。信吾もしは分かってきたな」
杖をソファの横にてかけたまま、達は嫌よく笑っていた。その顔を見ていると、胸の奥にりよりも先に、い疲労が広がった。
私はそれ以何も言わず、台所かられた。
廊へると、息子の部の方へ向かった。ドアのでを止め、軽くノックをする。
「信吾、しいい?」
から子を引く音がして、ドアがいた。
信吾はまだ制のズボンのままで、机のには教科とゲームが並んでいた。いかにも今、宿題と遊びので迷っていたような顔をしている。
「なに、母さん?」
私は部のに入り、ろにドアを閉めた。
信吾は学ながら、盲目の父の世話も、子の義母の介護もよく伝ってくれていた。私が夜遅く帰るは、祖母の膝掛けを直したり、父の杖の位置を確認したり、洗濯物を畳んだりしてくれる。
相応に抜けているところはある。
けれど、本質は優しい子だった。
私は信吾のそばに寄り、声を落とした。
「信吾、から私の方のおばあちゃんのに引っ越そう」
信吾は目を丸くしなかった。