"母が家を消した日" 第1話
815の夜、京・世田。いつもは静かなのマンションが、このばかりはにぎやかな活気に満ちあふれていた。お盆の休暇を利用して、暮らしの母を訪ねるために、48歳になる息子の健と、その妻の美紀、そして学1の孫娘のりが帰省してきたからである。
75歳になるは、暗いキッチンの流し台にち、夕の片付けを黙々とこなしていた。リビングからは、途切れることのない楽しげな笑い声が漏れ聞こえてきている。久しぶりに族3世代が揃って囲んだ卓は、にとって何物にも代えがたい温かいであるかのようにわれた。「お母さん、あんまり無理しないでくださいね」と、先ほど健がかけてくれた優しい言葉をいし、はさく目を細めて微笑んだ。本当に優しい息子に育ってくれた。5に最の夫をくして以来、孤独な暮らしを続けるの様子を、こうして定期に見にきてくれる息子のだけが、彼女の支えだった。
器をすべて洗い終えたは、エプロンをした。しばかりの疲労をじていたが、族と過ごせるびの方が勝り、そんな疲れなど全く苦にならなかった。「おばあちゃん、今のご飯、すっごく美しかったよ」とりが笑顔で言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
広告
夜の9をし過ぎた頃だった。は用をすために自分の部をて、廊をゆっくりと歩き始めた。リビングのドアはしだけ隙がいており、から話し声が漏れ聞こえていた。そのだった。美紀のどこかややかで計算い声が、のへとび込んできた。
「ねえ健、お母さん、最ちょっと物忘れがいとわない?」
はわずそのにを止めた。臓がドクンとく脈打ち始める。
「……そうだな。このも、同じ話を3回も繰り返していたしな」
健の声だった。
「やっぱり、そろそろ介護認定を受けさせた方がいいとうのよね。施設に入ってもらえば、このマンションを売れるじゃない。ここを売却すれば、私たちの残りの宅ローンも気に返せるし」
美紀の声には、配などではなく、何か別のが混じっているように聞こえた。のが廊の壁をく掴んだ。そうしなければ、突然の衝撃で崩れそうになる自分の体を支えることができなかったからである。全が激しく震えていた。
「そうね……。正直、うちも変なんだよ。りの塾代もバカにならないしな……」
健の声には、疲れた様子が滲んでいた。その、事を何もらないりの無邪気な声が響いた。
「ママ、ここ、私たちのになるの?」
「そうよ。おばあちゃんが施設にったらね」
広告
美紀が答える声が、廊まではっきりと届いた。
の膝が、ガクガクと激しく震え始めた。壁にをついたまま、そのにち尽くすことしかできなかった。のが真っになり、今まで信じていたものが音をてて崩れっていく覚だった。介護認定、施設、を売る。美紀の言葉が、ので何度も何度も繰り返される。
はトイレへくことも忘れ、そっと自分の部へと戻った。ただ部のに入り、ベッドに腰をろすと体から力が抜けていった。窓のからは、の夜の虫の声が静かに聞こえていた。
私は本当に物忘れがいのかしら。自分に問いかけてみたが、答えはない。確かに、々スーパーへ買い物にって、何を買うつもりだったか忘れることはあった。でも、それはを取れば誰にでもあることではないだろうか。
優しい族だとっていた。の目から涙が筋流れ落ちる。夫がくなってから、このマンションで暮らしをしてきた。寂しいもあったが、息子が々尋ねてきてくれることが支えだった。でも本当は――言葉が続かなかった。
リビングからはまだテレビの音が聞こえている。いつもと変わらない平な夜の音。でもにとって、この夜はもう平ではなかった。壁にかかった族写真が目に入る。くなった夫と息子、若い頃の自分が笑っている写真だった。
あなた、私、これからどうしたらいいの?
部のは静かだった。答えてくれるはもう誰もいない。