"霧の峠に消えた後継者" 第1話
199510、野県のあいを縫うようにる峠は、夕暮れとともにいに包まれていた。
も半ばを過ぎ、の々はしずつづき始めていたが、ち込めるいのでは、その葉も輪郭を失い、ぼんやりと滲んで見えるだけだった。空気はの入をわせるほどたく、吐く息がうっすらくなる。
午6を回った頃、1台の黒塗りのセダンが峠の肩に止まっているのが見つかった。
最初に気づいたのは、元の畑へ軽トラックで向かっていた老だった。のにぼんやりと残るヘッドライトのを見て、老はをめた。
「おかしいな。こんなところに、誰が……」
老は軽トラックをり、ゆっくりとセダンにづいた。くで見ると、そのはこの辺りでは滅に見かけない級だった。黒い体はに濡れ、灯のない峠で静かにを返していた。
運転席を覗き込んでも、の姿はなかった。
エンジンは切られている。だが、ヘッドライトだけが点いたままだった。ドアには鍵がかかっておらず、部座席には革の鞄が1つ、きちんと置かれていた。
老は胸騒ぎを覚えた。事故なら周囲にが倒れていてもおかしくない。けれど、崖を覗いても、声をかけても、返事はなかった。
老はすぐにくの駐所へらせにった。
通報を受けたのは、その区にく勤める巡査だった。
広告
50歳を過ぎた初老の巡査で、このの田畑も、農の軒軒も、そこに暮らすの顔までり尽くしている穏やかな物だった。
は自転をらせ、の峠へ向かった。
現に着くと、老の言う通りだった。派な黒塗りのが、主を失ったまま、のにぽつんと取り残されている。
は懐灯で内を照らした。
部座席の鞄のそばに、もう1つさなものが置かれていた。
鍵だった。
札のついた、別荘の鍵らしきものだった。
はそれに触れず、じっと目を凝らした。こので事件や事故を見てきた勘が、これはただごとではないと告げていた。
事故にしては、にぶつかった跡がない。争った様子もない。血の跡も、を滑らせた痕跡も見当たらない。
はの周囲をゆっくり歩いた。
「崖から落ちたなら、何か跡があるはずだ」
く呟きながら、ガードレール、面、むらを照らしていく。だが、そこに残されていたのは、に濡れたとたい空気だけだった。
まるで運転していただけが、をり、そのままのへすっと溶けてしまったかのようだった。
は隣の農を軒ずつ尋ね歩くことにした。の濃い夕暮れで、通りはほとんどなかったが、それでも誰かが何かを見ているかもしれなかった。
はのたいを歩き、玄関先でをげた。
広告
「夕方、こので誰かを見かけませんでしたか」
しかし返ってくる答えは、どれも同じだった。
「いやあ、今はがひどくてね。表になんかていないよ」
「の音くらいは聞いたかもしれんが、覚えとらんな」
刈り入れの終わった田んぼが、ので黒く静まり返っていた。くで犬が1度だけ吠えた。
は帳に聞き込みの結果を几帳面にきつけながら、胸の内で首をひねっていた。
やがてのナンバーから、持ち主はすぐに判した。
京・座に本社を構える、戦から続く名財閥の族。その3代目の継者として将来を嘱望されていた、28歳の若者。
名は、総郎。
その夜のうちに、事件は元警察署をきくかした。翌朝には京から捜査員が駆けつける騒ぎになった。
の峠に残された1台の。
内に残された鞄と別荘の鍵。
そして、どこにもいない若き継者。
それが、いい事件の始まりだった。
京から野へ向かったのは、沢田という刑事だった。
は30代半ば。働き盛りで、現を見る目も鋭く、署内でも将来を期待されている男だった。沢田は野へ向かう特急列ので、総郎のに目を通していた。
その族の名は、政財界に詳しい者なららないがいないほどだった。戦から続く老舗の財閥で、いくつもの会社を束ね、表向きは品で堅実な柄としてられている。