"最後に座った妻" 第3話
子はそれを片付けようとして、ふとを止めた。
そのまま廊へ向かい、押し入れをけた。奥にしまっていた古いノートを取りす。表はし黄ばんでいた。
机に座り、ペンを持った。
付をく。
それだけで、しばらく先がけなかった。
言葉にした瞬、本当のことになってしまいそうで怖かった。
「お母さんの顔が見たくなっちゃって」
話で、娘の理恵がそう言ったのは曜の夜だった。来週末に帰ってもいいかという話で、子は「もちろん」と答えた。
声を聞いただけで、胸のに久しぶりの温かさが広がった。
理恵は結婚してをてから、以ほど頻繁には帰ってこなくなっていた。仕事もあり、庭もある。忙しいことは分かっていた。それでも、娘が帰ってくると聞いただけで、子は何もから献を考えた。
理恵が帰ってきたのは、曜の昼過ぎだった。
玄関のチャイムが鳴ると、子はエプロンでを拭きながら玄関へ向かった。ドアをけた瞬、理恵はしきめのバッグを持ってっていた。
「ただいま」
「おかえり」
言葉より先に、2の表が柔らかくなった。
理恵は靴を脱ぎながらのを見回した。昔と変わらない具、母がえた玄関、のある棚。けれど、空気がしいことにすぐ気づいたようだった。
「お父さんは?」
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「リビングで聞を読んでるわ」
子がそう言うと、リビングから勝則の声がした。
「おう、帰ったのか」
理恵は「ただいま」と返し、リビングへ顔をした。勝則は聞をろしたが、すぐにまた目を戻した。
「ゆっくりしていけ」
「うん」
それだけだった。
夕飯の支度は、子と理恵が並んでった。2で台所につのは久しぶりだった。
「この包丁、まだ使ってるんだ」
「使いやすいのよ」
「懐かしい。私、これで初めてきゅうり切ったよね」
「そうそう。あの、指を切りそうで私の方が怖かったわ」
子は笑った。
勝則がいない台所は空気が違った。声のきさを気にしなくていい。話の途で遮られることもない。何かを言うに、相の嫌を確かめなくていい。
こんなに喋ったのは久しぶりだと、子はった。
夕が始まってしばらくしてからだった。
勝則が酒をみ、嫌よく話し始めた。
「理恵、お母さんってさ、昔からおっとりしてるだろう」
理恵は箸を持ったまま父を見た。
勝則は笑いながら続けた。
「俺がいなかったら、このの段取りなんて全部狂ってたとうぞ」
悪気がないのは、声の調子で分かった。
勝則にとって、それはただの軽だったのだろう。
だが、理恵は笑わなかった。
箸を持ったが、ほんのし止まった。そのさなを、勝則は気づかなかった。
子は気づいていた。
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理恵の目がしえたことも、元の笑みが消えたことも。
けれど子はすぐに笑った。
「そんなこともあったわね」
そう言って、を流した。
波をてない。
そのを収める。
35で体に染み込んだ技術だった。
事が終わり、勝則がリビングに移ると、理恵は黙って台所へ入ってきた。何も言わず、子の隣にち、洗い終えた器を布巾で拭き始めた。
しばらく、の音だけがしていた。
先にをいたのは理恵だった。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「いつも、ああいうじなの?」
子は皿を洗うを止めなかった。
「慣れてるから平気よ」
その言葉を聞いた瞬、理恵のが止まった。
「慣れてるから平気って、平気じゃないが言う言葉だよ」
子は返事ができなかった。
翌朝、理恵は予定よりく帰ると言った。
「急ぎの用事ができて」
勝則は聞に目を落としたまま、「そうか、気をつけてな」とだけ言った。
玄関で靴を履きながら、理恵は子の方を向いた。しだけ声をくして言った。
「お母さん、無理しないでね」
ドアが閉まった、子はしばらくそのにっていた。
娘にそう言わせてしまっていることが、じわりと胸に広がった。
自分では気づかないふりをしてきた。
けれど、理恵にはずっと見えていたのかもしれない。
「慣れてるから平気」
自分で言った言葉が、ので繰り返された。
慣れたのと、諦めたのは同じことなのだろうか。
その区別をしてしまうと、見えなくていいものまで見えてくる気がして、子はずっと曖昧にしてきた。