"母を逃がした電話" 第1話
夜3。
が寝静まった頃、台所に置かれた固定話が突然鳴りました。
古いのに、ジリリリ、という音が鋭く響きます。私は布団ので目をけました。最初はかといました。けれど、2回目、3回目と鳴り続ける音に、胸がざわつきます。
このに話が来るなんて、普通ではありません。
私はそっと布団を抜けし、音をてないように廊へました。2階の奥の部からは、義娘の美たちの寝息が聞こえます。階段のを通る、私は息を止めました。
台所に着くと、話はまだ鳴っていました。
震えるで受話器を取りました。
「……もしもし」
その瞬、聞こえてきたのは、半度も直接聞けなかった息子の声でした。
「母さん、俺だ。優だ」
私は受話器を両で握りしめました。
「優……本当に、優なの?」
涙がそうになりました。けれど、声をげるわけにはいきません。
話の向こうで、息子は息を詰めるように言いました。
「母さん、がない。よく聞いて。全部分かってる。あいつらが何をしようとしてるか、俺は全部ってる」
臓が喉元までねがりました。
「あいつら」という言葉で、私はすべてを察しました。
美。
美の父・祝井幸。
美の母・。
このに入り込んできた3のことです。
優はで続けました。
「今すぐをて。玄関じゃなくて、勝から。
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荷物はいらない。通帳も印鑑も全部置いていい。田先がを打ってくれてる」
「でも……」
「母さん、頼む。体ひとつで逃げてくれ。2丁目の角のコンビニまで歩いて。佐々のおばさんがで待ってる」
私は目を閉じました。
75きてきて、自分のから逃げることになるなんて、考えたこともありませんでした。戦の貧しさも、夫の闘病も、息子を1で支えた々も乗り越えてきました。それでも、今この瞬ほど怖い夜はありませんでした。
けれど、話の向こうの優の声には、迷いがありませんでした。
「母さん、振り返らないで。絶対に音をてないで」
私は受話器を置き、パジャマのにカーディガンを羽織りました。着の内側には、何もかけてきためたメモを隠してあります。
廊へると、がすくみました。
2階の部のを通る、振り返りそうになりました。
けれど、振り返ったら終わりだといました。
私は勝へ向かい、古い鍵をそっとけました。正雄が昔つけてくれた鍵です。し持ちげながら横にずらすと、音をてずにくことを、私はよくっていました。
たい夜が頬を打ちました。
庭の犀のりがかすかに漂っています。
私はサンダルを引っかけ、裏戸からへました。
振り返りませんでした。
75歳の夜逃げは、こうして始まりました。
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京・世田の静かな宅に、築30ほどのい2階建てのがあります。柱には「田」の表札がかかり、庭には夫の正雄が植えた々が今も季節ごとにを咲かせます。
このの主は、田節子、75歳。
夫の正雄が建てたこので、私はく暮らしてきました。
正雄はゼネコンで定まで勤めたでした。寡黙で、器用で、族のためにただひたすら働く昭の男でした。8、がんでくなった、正雄はこの世田ののほか、都内にいくつかの産と、相当な預貯を私に残してくれました。
最の病で、痩せたで私のを握り、正雄はかすれた声で言いました。
「節子、おが困らないようにしてあるから」
私は泣きながら頷きました。
正雄はさらに続けました。
「何かあったら、田先を頼れ。あのが全部分かってるから」
田先とは、正雄が現役代から付きいのあった弁護士、田誠郎先のことです。田法律事務所の代表で、正雄の個資産の管理から遺言の作成まで任されていたでした。
正雄がくなった、私は1でこのを守ってきました。
庭の入れをし、所のとお茶をみ、週に1度は昔の友と話でおしゃべりをする。ささやかだけれど、穏やかな毎でした。
1息子の優は、都内の商社に勤めています。
案件を扱う部署にいて、張もい忙しいでした。それでも以はに2度ほど実に顔をしてくれる、優しい息子でした。