"自由を返した春" 第1話
その夜、紀子は台所で豚汁を作っていた。
根、参、こんにゃく、豆腐。いつもと同じ材料を、いつもと同じ順番で切っていく。包丁がまな板に当たる音だけが、静かな台所にさく響いていた。
根菜はしきめに。
それは夫の夫が、昔から好んでいた切り方だった。結婚してから、何度も同じことを言われ、気づけば考えるより先にがくようになっていた。
リビングではテレビがついていた。夫はソファにく沈み、画面を眺めている。定退職してから、彼の定位置はそこだった。
「できたよ」
紀子が声をかけても、返事はなかった。
それでも紀子は、いつものように器を並べ、箸を置き、子を引いた。分の豚汁から湯気がちのぼる。の夜の空気はえていたが、卓だけはまだ温かかった。
夫は箸を持つと、ようやく顔をげた。
「なあ、紀子」
「うん」
紀子は椀をに取った。
次の瞬、夫は淡々と言った。
「俺はもう自由にきたい」
紀子のが、静かに止まった。
「婚してくれ」
湯気が、のをゆっくり揺れていた。
紀子は鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ、目のに座る夫の顔を見つめた。
、仕事をしながら事を作り続けた。洗濯をし、掃除をし、子どもを育てた。体調が悪い朝も、しい夜も、誰かに音を吐くことなく、このを守ってきた。
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それを今、夫は「自由になりたい」と言った。
「退屈だったの?」
紀子の声は、自分でも驚くほど静かだった。
問いかけというより、確認だった。
夫は目をそらした。
「そうじゃない。ただ、もっと自分のが欲しいんだ。旅もしたいし、好きなこともしたい」
紀子は黙って聞いていた。
「おといると、なんか窮屈なんだ」
その言葉だけが、椀の湯気よりもはっきりと胸に残った。
「おは図館にって、帰ってくれば今まで通りだろう。でも俺は違う。の方が楽だ。自分の分だけなら、事もしたことない」
紀子は夫の顔を見た。
本当にそうっているのだと分かった。
「はどうするつもり?」
「売る」
夫はすぐに答えた。
「も分割になるだろうが、仕方ない」
「お母さんの介護は?」
夫はしだけを置いた。
「それは……おに頼むしかないな。今まで通りでいいだろう。母さんも、その方が落ち着く」
紀子はもう度、夫の顔を見た。
歳。髪が増え、背もし丸くなった。けれど、その表には、自分がどれほど都のいいことを言っているのか理解している様子はなかった。
になりたい。
でも、母親の介護は今まで通り任せたい。
その矛盾に、夫は気づいていなかった。
豚汁はまだ温かかった。
紀子は再び箸を持った。そして、何も言わずにべ始めた。
その夜、紀子は泣かなかった。
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ただ、卓の湯気が消えていくのを、静かに見ていた。
翌朝、紀子は半に目を覚ました。
目覚ましよりも先に体が起きる。それは染みついた習慣だった。
まだ暗いキッチンにち、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。棚からカップをつしたところで、紀子のが止まった。
側が夫のカップ。
側が自分のカップ。
考えるより先に、が勝にいていた。
紀子はしばらくそのつのカップを見つめ、それから静かに片方を戻した。
フライパンをにかけ、卵をつ割った。菜箸で静かに混ぜ、砂糖をし、醤油をし入れる。それだけで、毎朝同じになる。
窓のはまだ暗かった。
「窮屈」
昨夜の言葉が、ふいにのへ浮かんだ。
声にしたわけではない。ただ、その言葉だけが、台所のに転がるのように、ので引っかかっていた。
卵焼きを端に寄せ、形をえる。綺麗に巻けた卵焼きを皿に移しながら、紀子はしだけを止めた。
婚しても、母親の介護は頼む。
夫はそう言った。
になるのに、役割だけが残る。
考えないようにして、紀子はフライパンを洗った。布巾で気を拭き取り、朝をテーブルに並べる。
夫が起きてきたのはを過ぎてからだった。
寝癖のついた髪を掻きながら、いつもの子に座る。
「コーヒー」
紀子はカップを置いた。
「砂糖入ってるか」
「いつも通り」
夫はそれ以何も言わず、テレビのリモコンをに取った。