"判を押さない妻" 第4話
あなたがあなたのを取り返すための、私からの支度です。息子を許す必はありませんよ」
律子はを胸に当て、声をさずに泣いた。
あの夜から初めて流した涙は、夫のためではなかった。
義母のために流した涙だった。
隣で正則は母の遺から目をそらしたまま、いつまでも顔をげられずにいた。
5000万円。
その数字は、隠しておけるものではなかった。
正則が駅向こうのアパートで、ついうっかりにしたのが始まりだった。
「お袋の遺産が入った。だが、半分は律子に取られた」
仁美の目のが変わった。
「半分って、いくらよ」
「5000万円ほどだ」
「5000万円?」
仁美はを乗りした。
「じゃあ、あなた、おあるんじゃない。それだけあれば慰謝料なんていくらでも払えるでしょう。裁判でも何でもして、さっさと婚してよ」
「だから裁判しても無理なんだ。俺の方が悪い側なんだから」
「何それ。じゃあ私はいつまでこんなアパートで待てばいいわけ?」
仁美の声が鋭くなった。
蓮が母親の剣幕に驚いて泣きした。けれど仁美は、舌打ちをするだけで子どもを抱きげようとしなかった。
その横顔を、正則は初めてまじまじと見た。
会った頃、甲斐もなく胸を弾ませた笑顔は、そこにはなかった。若さと優しさだとっていたものは、いつのにか焦りと欲に変わっていた。
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「ねえ、聞いてるの?5000万円あるんでしょうって聞いてるの」
「ああ、聞いてるよ」
正則は泣き続ける蓮を抱きげた。さな体はく、ずしりとかった。
このさのために、何もかも壊したのではなかったか。
それとも自分は、このさすら言い訳にしていただけなのか。
数、正則は最の賭けにた。
律子のに、印鑑証と類の束を置いたのだ。
「お袋の遺産、俺の取り分も全部おにやる。5000万円だ。このも、退職の残りもだ。だから別れてくれ。頼む」
そう言って、正則は畳に額をこすりつけた。
61ので、初めての座だった。
律子はその部を静かに見ろした。
30、このの背に憧れて嫁いできた。その背が今、畳のでさく丸まっている。
「あなた」
律子は静かに言った。
「その5000万円は、お父さんとお母さんが残したおですよ。それを女のために差しすというの。お母さんが聞いたら、何とおっしゃるかしらね」
「だから頼んでるんだ」
「あなたからいただくものは何もありません。お母さんから、もういただきましたから」
正則は顔をげた。
「なぜだ。なぜそこまでして俺に縛りついてくる。俺が憎いのか」
「憎い、ねえ」
律子はしだけ首を傾げた。
それから、あの夜と同じ微笑みを浮かべた。
「あなた、い違いをしていますよ。縛られているのは私ではなくて、あなたの方」
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正則はその言葉のを、すぐには理解できなかった。
けれど、ゆっくりと染みてきた。
婚できない限り、仁美とは再婚できない。
財産を差ししても、律子は受け取らない。
だとっていた扉は、1から内側ではなく、側から鍵がかかっていたのだ。
それから1余り、膠着状態は続いた。
仁美の催促は、を追うごとに厳しくなった。会えばの話。話でもの話。蓮の写真が送られてくる回数は減り、代わりに振込先と活費の催促が増えた。
「ねえ、本気で言ってるの?私、もう36なのよ。あと何待たせる気?」
「待ってくれ。必ず何とかする」
「その言葉、もう20回は聞いた」
正則は何も言い返せなかった。
では律子がいなくなったように静かだった。吉の、2階の部は空いたままになり、律子も最限の会話しかしなくなった。事はたが、以のような温かさはなかった。
そして3度目の、正則のスマートフォンにい文面が届いた。
「もう待ちくたびれました。私にもがあります。好きなができたので、そのと暮らします。蓮に会わせるつもりはありません。養育費だけは毎忘れないでください」
正則はすぐにアパートへをらせた。
だが部は、もぬけの殻だった。
カーテンはされ、畳には具の跡だけが残っていた。台所の棚も空で、洗面所には歯ブラシ1本残っていない。
に尋ねると、若い男が運転するワゴンで先週引っ越していったという。