"判を押さない妻" 第3話
仁美は眉をひそめた。
「奥さん、55でしょう。婚してもらって慰謝料たっぷりあげればぶんじゃないの」
「そういう女じゃないんだ」
「なにそれ。かばってるの?」
「かばってない。ただ、何を考えてるのか分からないんだ。鳴りもしない。泣きもしない。毎朝ちゃんと飯がてくる」
「気が悪い奥さんね」
仁美は卵焼きの皿を音をてて置いた。
かばっているのではなかった。
ただ、あの夜の律子の微笑みをいすたび、正則は妻というが急に分からなくなるのだった。
苛った正則は、で段にた。
「もうこのには居づらいだろう。ていったらどうだ」
律子は台所でまな板を拭いていたを止め、静かに振り向いた。
「ていきません。ここは私のでもあります。それに2階には、お母さんがいらっしゃいますから」
「だったら活費はらんぞ。それで音をげるなら……」
「あら、そうなったら、婚姻費用の調を申してます」
正則の表が固まった。
「別居でも夫婦である限り、あなたには私を扶養する義務があるの。弁護士の先が、類はいつでもせるようにしてくださっています」
正則は言葉を失った。
目のの妻は、30連れ添った女ではなかった。壁のから自分を見ろしている、らない誰かのようだった。
「お、いつからそんな女になった」
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「あなたが私をこうしたんですよ」
「30だぞ。30のってものがおにはないのか」
「30のを先に捨てたのは、どちらでしたかしら」
正則は拳を握った。
しかし、振りげる所はどこにもなかった。
その、2階から吉が律子を呼ぶ細い声がした。
「律子さん」
律子はすぐに表をらげた。
「はい、ただいま」
そう言って階段をっていくろ姿を、正則はただ見送るしかなかった。
吉は6にを悪くした。
それから世話をしてきたのは、嫁である律子だった。事を13度運び、体を拭き、に2度の通院に付き添った。夜に吉が呼べば、律子は眠い目をこすって2階へがった。
6、ほとんど1も欠かさなかった。
実の息子である正則が母の部をのぞくのは、に1度あればいい方だった。
「律子さん、あんたには苦労ばかりかけるね」
吉はある朝、枕元でそう言った。
「苦労だなんて。お母さんとのおしゃべりが、私の楽しみなんですよ」
「お世辞でも嬉しいよ」
吉はしわだらけの顔で笑った。
「今は何のだい?」
「仙です。庭の隅に今も咲きましたよ」
律子は枕元の輪挿しのを替え、吉の髪を櫛でそっと梳いた。
嫁いできた頃、律子は吉を厳しい姑だとっていた。料理の付け、洗濯物の干し方、親戚づきあいまで、よく注された。けれど子どもを授からないと分かった夜、誰よりく背をさすってくれたのは、このだった。
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「律子さん、私はね、全部見ていたよ」
あるの夕方、吉はぽつりと言った。
律子はを止めた。
「お母さん?」
「あの子の帰りが遅くなった頃も、あんたが台所で1、背を丸めていた夜も。寄りはね、はってもの目はらないんだよ」
律子は何も言えなかった。
吉は井を見げたまま続けた。
「あんな息子に育てたのは、私の責任だ。許しておくれとは言わない。ただ、あんたはもう自分のためにおき」
「お母さん……」
「私の娘は、あんた1だよ」
律子は返事の代わりに、吉のしわだらけのを両でそっと包んだ。
そのの終わり、吉は眠るように逝った。
85の静かな幕引きだった。最の朝、吉は律子のを握り、「ありがとうね」と2度言った。
息子には何も言い残さなかった。
が済んだ頃、見らぬ弁護士から連絡が来た。吉は3、自分で公証役へ向き、公正証遺言を残していたという。
先代が残したアパート1棟と預、わせておよそ1億円。
その半分を息子の正則に、残り半分を嫁の律子に遺贈する。
正則は声を荒らげた。
「親父の財産だぞ。嫁に半分なんて、そんな無茶が通るか」
弁護士は淡々と告げた。
「お母様は計算なさっています。息子さんの遺留分はちょうど2分の1。1円も侵害しておりません。法に争いようがございません」
遺言には、律子宛のが添えられていた。
「6ありがとう。これは介護のお礼ではありません。