"退職金を狙った夫" 第1話
「ってきます」
玄関で靴を履きながら、子はいつものように声をかけた。けれど、リビングから返ってきたのは沈黙だけだった。
子はさく息を吐き、振り返った。ソファには、63歳の夫・昭雄が聞を広げて座っていた。スーツに着替え、髪もきっちりえたその姿は、どこから見ても「できる男」だった。
メーカーの部職を務めげ、定まで残り3ヶ。退職は2,000万円。周囲からは何度も「ご派なご主ね」と言われてきた。
子供たちは独し、今は夫婦2だけのだった。けれど子には分かっていた。このが最に「ありがとう」と言ったのがいつだったか、自分はもういせないことを。
「今、帰りは遅くなりそう」
子がそう言うと、昭雄は聞から目もげずに言った。
「わからん」
たったそれだけだった。
子供がいた頃は、まだ笑い声があった。けれど末っ子がをてから、このには2分の沈黙だけが分く積もっていた。
子は台所に戻り、洗い物を始めた。窓のでは、所の公園で老夫婦が並んでラジオ体操をしている。ゆっくり腕をげ、顔を見わせて笑っている姿を見て、子はを止めた。
ああいうが、このに来ることはあるのだろうか。
定、毎このと顔を突きわせて暮らす。それがどういうことなのか考えるほど、胸の奥にたいものが沈んでいった。
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そのの夕方、帰ってきた昭雄に、子はい切ってをいた。
「定したら、2でどこか旅でもけたらとって」
昭雄はネクタイを緩めながら、面倒そうに眉をかした。
「自分で考えてる」
「2でっていう話がしたいのよ」
「おには関係ない話だ」
会話はそこで終わった。
子は黙って夕を皿に盛った。噌汁をよそい、焼き魚を並べ、箸を置く。順はいつも通りだった。でも胸のでは、さっきの言葉がたく沈んでいた。
関係ない。
38、このの隣にいた自分は体何だったのか。
事の、2は言も話さなかった。テレビの音だけが部に流れ、昭雄はべ終わるとすぐに斎へ消えた。
子は1で器を片付けながら、ふと気づいた。りでもしみでもない。もっと静かでたい何かが、自分のにまれている。
その夜、布団ので井を見つめていると、隣の部から昭雄が誰かと話で話す声が聞こえてきた。言葉までは聞き取れない。けれど、その声は子に向けるよりずっと柔らかかった。
やがて話が切れ、に静寂が戻っても、子は眠れなかった。
翌朝、いつものように朝を用しながら、子は静かに決めた。
このまま黙って終わるつもりは、もうない。
昭雄はまだ何もらない。自分の妻が、すでにき始めていることを。
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あれから3が経った夜のことだった。
子は洗濯物を取り込み、畳んだシャツを持って廊を歩いていた。斎のを通りかかった、から昭雄の声が聞こえてきた。
その声に、子はわずを止めた。
「ああ、そうだよ。向こうはもう決めてあるから配しなくていい」
話越しに話す昭雄の声は、あの夜と同じように柔らかかった。で子に向ける声とはまるで違う。相をさせるような、どこか浮きった声だった。
子は廊の暗がりにったまま、胸の奥で言葉を繰り返した。
向こうはもう決めてある。
向こうとはどこのことだろう。誰に話しているのだろう。
翌朝、昭雄が勤したあと、子はしばらく玄関にっていた。音がざかり、のが完全に静かになってから、斎のドアにをかけた。
ゆっくりけると、然と並んだ本棚が目に入った。机の引きしには鍵がかかっている。けれど机の端に、置き忘れたかのようなメモ用が1枚あった。
子はそれをに取った。
そこには物件名がかれていた。続いて「1LDK」という文字。そして「1分」という文字。
このには、まだ2で暮らしている。なのに、そこにかれていたのは1分だった。
子はメモを見つめたまま、しばらくけなかった。指先がしたくなる。けれどきく取り乱すことはなかった。
やがて彼女は、そのメモをそっと元の所に戻した。
こので責めてることも、問い詰めることもしない。