"15年無給で働いた若女将を追い出した老舗旅館の末路" 第5話
静かな礼と消えた台骨
帳に、痛々しいほどの静寂が広がっていた。
頬の痛みは、いつのにか引いていた。代わりに、全の血がすうっとたくなり、驚くほど澄み切った静けさが美里のを支配していた。
もう、涙すらなかった。
りも、悔しさも、未練すらも、綺麗に燃え尽きてになっていた。
美里はに散らばった帳の破片を、枚枚、音をてずに丁寧に拾い集めた。のついた表をのひらでそっと拭い、胸の内にしっかりと抱きしめる。
そして、ゆっくりとちがった。
乱れた着物の裾をえ、背筋を真っ直ぐに伸ばす。そのち姿は、にわたって老舗旅館の台骨を支え、数千のお客様をもてなしてきた、本物の女将としての凛とした気品に満ち溢れていた。
美里は、と也、そして笑いを浮かべるリナの目を、正面から静かに見据えた。
「……分かりました」
その声は、震えてなどいなかった。あまりにも静かで、透き通った声だった。
「、変お世話になりました」
美里は畳のに正座し、のでく、くをげた。切の乱れのない、完璧なお辞儀だった。
「ふん、物分かりが良くて助かるわ」
はを鳴らし、勝ち誇ったように笑った。
「あんたの私物なんて、したものはないでしょうけど、今に全部運びしなさいよ。
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からはリナちゃんが若女将の部を使うんだからね」
「ええ、今すぐていきます」
美里はちがり、度も振り返ることなく帳をにした。
階の隅にある、わずか畳の粗末な自へ戻る。
嫁いできたに持ってきたさな桐の箪笥から、数着の普段着と、実の母が持たせてくれた数珠を取りし、スーツケースに詰めた。荷造りは、わずか分で終わった。、この巨な旅館で働き詰めだったというのに、美里個の持ち物など、スーツケースつ分にも満たなかったのだ。
最に、割烹着を綺麗に畳み、机のに置いた。
勝からへると、夕暮れのたいが吹き抜けていった。
温泉の坂をりながら、美里は度だけを止め、夕に照らされる『鶴の湯』のきな板を振り返った。
(さようなら……)
ので静かに呟く。
美里がいなくなったことで、あの宿がどうなるのか。
仕入れの伝票も、板たちのシフトも、常連客の細やかな体調管理も、すべて美里ののにあった。も也も、帳簿ののおの入りしか見ておらず、現がどのように回っていたのかなど、何つりはしないのだ。
そして、美里が宿をったそのの夜。
鮮魚の源蔵から、美里のスマートフォンに驚いたような声で話がかかってきた。
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『美里ちゃん! 本当かい!? あんた、鶴の湯をたって……!』
「源さん……。急におらせもできずにてきてしまって、ごめんなさい」
『なんで謝るんだよ! あの女将とバカ息子が、あんたを追いしたんだろ!? 許せねえ……! さっき也がに来てよ、「から仕入れは全部番い養殖の魚に変えろ、浮いたで肉を買う」なんて抜かしやがった!』
源蔵の声が、受話器の向こうで荒々しく響いた。
『佐藤のとみ子さんの米寿の鯛はどうするんだって聞いたら、「そんな寄りのことなんかるか、適当に脂っこいカルパッチョでもしとけ」だぞ!? 客を何だとってやがるんだ!』
美里は胸元にを当て、痛むを抑えた。
「源さん……とみ子さんには、私からちゃんとお詫びのをきます。私の都で、ご迷惑をおかけしてしまって……」
『美里ちゃん、あんたが謝るこっちゃねえよ! いいか、俺はな、から鶴の湯には魚を匹たりとも卸さねえからな! 番いい魚は、あんたのために取っておいたんだ! あんな腐った宿に卸す魚なんざ、うちのには匹もねえよ!』
源蔵の言葉を皮切りに、『鶴の湯』を支えてきた歯が、音をてて狂い始めていた。
美里という絶対な軸を自ら叩きしたことに、あの愚かな親子が気づくまでのは、もう残りわずかしか残されていなかった。