"15年無給で働いた若女将を追い出した老舗旅館の末路" 第1話
湯気の向こうの
朝靄の濃い午半。静まり返った温泉で、厨の勝にあるい鉄扉が、鈍い音をてていた。
のたい空気を吸い込みながら、美里(みさと)は音を忍ばせて調理へ入った。創業百の老舗温泉旅館「鶴の湯」。誰よりもく厨のかりをつけることが、美里が嫁いでから、も欠かさず続けてきた課だった。
髪をろできっちりと束ね、清潔ない割烹着に腕を通す。美里はきな鍋のにち、夜から昆布を浸しておいたをにかけた。
沸騰する直のわずかな気泡を見逃さず、慎に昆布を引きげる。そこへ、削りたての本枯節を惜しみなく投入する。ふわっとちる品な汁のりが、え切った厨の空気をじんわりと温めていく。
「美ちゃん、おはよう。……やっぱり、今も寝てないんじゃないのかい?」
勝から顔を覗かせたのは、裏にある老舗鮮魚の主・源蔵(げんぞう)だった。靴にゴム掛け姿の源蔵は、獲れたての魚が入ったトロ箱を抱えながら、美里の目のに刻まれたい隈を見て配そうに眉を寄せた。
「源さん、おはようございます。ふふ、ちゃんと寝てますよ。くらいは横になれましたから」
「なんて眠のうちに入らねえよ。
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まったく……あの女将は、あんたを体何分働かせりゃ気が済むんだか」
源蔵は憤りを隠そうともせず、どすんと箱を調理台に置いた。箱のには、に輝く見事な然の真鯛が、氷のに美しく横たわっていた。
「ほらよ。来週、京から佐藤のとみ子さんがお見えになるんだろ? 米寿のお祝いだって聞いてたからな。で番肥えてての締まったやつを、競り落として取っておいたぞ」
美里の顔に、ぱっと温かいかりが灯った。
「ありがとうございます、源さん! こんなに派な鯛……とみ子さん、きっとんでくださいます」
「礼を言うのはこっちだよ。美里ちゃん、とみ子さんは奥歯が悪くていものがべられねえから、煮付けの入れには気を使って柔らかく炊くんだろ? あんたがそこまで客のひとりの体を気遣ってるから、俺もで番いい魚を回したくなるんだよ。『鶴の湯』の簾に魚を卸してるんじゃねえ。あんたがいるから、卸してんだ」
源蔵の器用で温かい言葉に、美里は胸の奥がツンとくなるのを覚えた。
佐藤とみ子さんは、くなった夫と共にからこの宿に通い続けてくれている最古参の常連客だった。夫に先たれてからは腰がめっきりくなり、で旅にかけることすら億劫がっていたが、半に美里が送った通のをきっかけに、「美里さんの顔を見に、米寿の記に伺うわね」
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と予約を入れてくれたのだ。
とみ子さんのカルテのような記録は、すべて美里ののと、厨の片隅にある垢のついた学ノートに記されていた。を好むこと、塩分を控えていること、根菜類は箸で簡単に崩れるまでじっくりと煮含めること。
源蔵を見送り、美里は仕込みのを休めることなくかし続けた。
朝用の焼き魚を並べ、温泉卵の温度を管理し、宿泊客分の噌汁のをえる。仲居たちが勤してくるには、朝の配膳準備が寸分の狂いもなくえられていた。
「おはようございます、若女将」
勤してきたベテラン仲居の松子が、厨を覗いて々とをげた。
「松子さん、おはようございます。本館の階のお部、昨夜し咳き込んでいらしたから、朝のお茶はめのほうじ茶に差し替えてあります。配膳のに伝えていただけますか?」
「まあ、そこまで……。本当に、若女将の目配りにはががります。女将にも、しは見習っていただきたいくらいですわ」
松子が声で漏らした言葉に、美里は苦笑いしながらそっと差し指を唇に当てた。
美里はこの旅館に嫁いでから、度として料という形でおを受け取ったことがなかった。
「嫁が婚の業を伝うのは当たりの義務」「の面倒を見てやっているのだから、銭など求するのは浅ましい」
——義母である女将・(ふさえ)のその言葉に、夫の也(かずや)も度として疑問を差し挟むことはなかった。
それでも、美里は文句を言わずに働き続けた。
夫へのがあったから。そして何より、「美里さんの料理をべると、きできる気がするわ」「あなたのおもてなしがあるから、毎来るのよ」と笑顔を向けてくれる宿泊客たちの温かい言葉が、美里の命を支える何よりの誇りだったからだ。
しかし、美里がをにして守り続けてきたという歳を、根底から踏みにじる嵐の音は、すでにすぐそこまで迫っていた。