"二十通の辞表" 第4話
決戦夜の厨と百の仕込み
半ば、れの空の、綾瀬楼は広の襖を取り払い、創業百周の記宴会に向けた華やかな装飾が施されていた。
翌の宴会には、元の政財界のトップ、代々の贔屓にしてくれている名士、企業の社など、百名もの来賓が名を連ねている。まさに料亭のと威信を懸けたイベントだった。
の夕方、広に通の退職届を叩きつけ、「の料理ゼロでどうにかしてみろ!」と捨て台を吐いて、黒岩との板たちは夜のへと消えていった。
誰もいなくなった厨に駆け込んできたのは、息を切らした佐藤君だった。
「若女将! どうするんですか!? 板さんたちが本当に全員帰っちゃいました! の仕込み、何つ終わっていません! 僕じゃ、百の宴会料理なんて……!」
顔面を蒼にして取り乱す佐藤君の肩を、私はポンと優しく叩いた。
「落ち着いて、佐藤君。これでいいのよ」
「え……?」
「あのたちには、最初からの厨にってもらうつもりはなかったの。……さあ、今夜は忙しくなるわよ。百の歴史で、番美しい料理を作りましょう」
私は着物の袂をたすき掛けにし、を羽織ると、調理台の央へと歩みた。
そして、使い込まれた自分の包丁ケースを広げた。
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漆黒の鞘から引き抜かれたのは、美しく研ぎ澄まされ、青いを放つ本の柳刃包丁だった。刃元から切っ先まで寸の狂いもなく研ぎげられたその刃紋を見た瞬、佐藤君の目が点になった。
「若女将……その包丁……」
「まずは汁引きからよ。佐藤君、あなたが削ってくれた最の鰹節と、私が取り寄せた本物の利尻の等昆布を使うわ。沸騰直の温度管理、伝ってくれる?」
「は、はい!」
そこからの作業は、佐藤君にとって奇跡の連続だった。
勝のベルが鳴り、あらかじめ配していた専用便で、駿湾の朝獲れの伊勢老、の然真鯛、丹波の松茸など、全国の級産から直送された最峰の材が次々と運び込まれてきた。黒岩たちが仕入れていた粗悪品とは、も艶もまるで違う、命の宿った材たち。
調理台のにった私は、迷いのないつきで伊勢老の殻に刃を入れた。
流れるような無駄のないさばき、材の繊維を切潰さない完璧な包丁の角度。
ねるような鮮やかさで然真鯛の鱗を落とし、透き通るような造りへと引き切っていく。そのあまりの速さと正確さに、佐藤君は息を呑んでち尽くしていた。
「す、すごい……! 若女将、その包丁さばき……体どこで……!?」
「私の話は、またね」
私は微笑みながら、鍋の汁を丁寧に掬い取った。
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「雑のない、澄み切った番汁を引くわよ。綾瀬楼の伝統は、材への敬と、お客様をうのにしかないの。それを今夜、で証するのよ」
「……はい!」
佐藤君の瞳に、迷いはもうなかった。
痛む指先に清潔な包帯を巻き直した青は、私の指示を完璧に理解し、汁の漉し布を支え、野菜の茹でを際よくこなしていった。
だけの厨。
声も暴力も、の引っ張りいもない、料理への純粋なだけが満ちた空。
昆布の豊かな磯のりと、鰹節の力い芳が湯気となってちり、厨の隅々まで染み渡っていく。
伊勢老の丹焼きの仕込み、松茸と鱧の瓶蒸しの準備、鯛の昆布締めの熟成、季節の吹き寄せ菜の細切り。
百分という気のくなるような仕込みのを、私たちはもすることなく、乱に捌き続けた。
の空がみ始め、夜けの柔らかなが厨の窓から差し込んできた午。
調理台のには、完璧にごしらえを終え、番を待つ百の美しい材たちが、然と並んでいた。
「終わった……本当に、全部終わった……!」
佐藤君はそのにへたり込み、疲労と達成の入り混じった涙を流した。
私はたいで顔を洗い、青い空を見げた。
さあ、台はった。
自分たちの傲さに溺れ、料亭の板を質に取った気でいる愚か者たちに、本物の現実を突きつけてやるだった。