"離婚して10年、元夫が鍵を替えなかった理由" 第8話
擦り切れたかかととしい約束
「……部、汚れてなかったか」
しばらくして、落ち着きを取り戻した正彦が、まだし赤いのままポツリと尋ねてきた。
「全然。っていたより、ずっと片付いてたわよ。シンクもピカピカだったし、埃も溜まってなかった」
みつ恵が答えると、正彦はしだけしたように息を吐いた。
「ただね……」
みつ恵は鞄にを添え、優しく首をかしげた。
「あの玄関に置いてあったスリッパ。いピンクのやつ。……あれ、もう古すぎますよ」
正彦の目が、わずかに揺れた。
「……そうか」
「ええ。洗いすぎて、かかとのところが擦り切れてペラペラになってるじゃない。埃ひとつ被ってないから、事にしてくれてたのはよく分かったけど……あんなの履いてたら、は元がえちゃいますよ」
みつ恵が呆れたように言うと、正彦は決まり悪そうに線を泳がせ、喉の奥でさく唸った。
「……捨てられなかったんだ。おが置いていったもの、それくらいしかなかったからな」
その素直すぎる言に、みつ恵の胸がまたツンと痛んだ。
自分の気配をしでも残しておきたくて、たったのスリッパを、何度も、何度も洗いながらを過ごしてきた男。言葉にはできなくても、彼の活のすべてが、みつ恵への祈りのようないで満たされていたのだ。
「退院したら、しいのを買っていきます」
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みつ恵が静かに告げると、正彦はハッと息を呑み、ベッドので体をし起こそうとした。
「……退院したらって、お……」
「暮らしの病みがりの体に、事なんてできるわけないでしょう。リハビリだって通わなきゃいけないんだし」
みつ恵はパイプ子からを乗りし、正彦のく方のを、両でそっと包み込んだ。
乾燥して、節くれだった、たい。族を支え続けてくれた、懐かしい夫のだった。
「池さんにも言われちゃったわよ。『あのが待っているのは誰なのか、すぐに分かりました』って。……あんな鍵の残し方をしておいて、今さら私を追い返す気?」
正彦の目が潤み、唇が刻みに震えた。
何かを言おうとして、また言葉に詰まる。けれど、今度は逃げるように目を逸らすことはなかった。
彼は力が入らないはずの指先に、ぎゅっと力を込め、みつ恵のをく、痛いほどに握り返してきた。
「……帰って、きてくれるのか」
「帰る所はまだここにあるって、にいたのは正彦さんでしょう?」
みつ恵が微笑むと、正彦のきな目から、ぽろりと粒の涙が零れ落ち、いシーツに染み込んでいった。
男泣きする夫の顔を、みつ恵は初めて見た。
の沈黙も、れていたの孤独も、がく握りったの温もりのに、静かに溶けて消えていくようだった。
「……晩飯、何がいい?」
涙を拭いながら、正彦がポツリと呟いた。
「え?」
「退院したの、晩飯だ。……おの作った肉じゃがが、ずっといたかった」
みつ恵は目を丸くし、それから今番の笑顔を咲かせた。
「はい。腕によりをかけて、盛り作って待ってますからね」
コンコン、と病のドアが控えめにノックされ、護師さんが顔を覗かせた。
「神さん、そろそろ面会終のおですよ」
「あ、すみません。すぐにます」
みつ恵はちがり、コートを羽織った。
「じゃあ、またね。朝、ゆと緒に来るから」
「……ああ。気をつけて帰れよ」
正彦の穏やかな声に見送られ、みつ恵は病をにした。
廊を歩く取りは、病院に来たとは比べものにならないほど、軽やかで、温かい力に満ちていた。