"144枚の給与明細" 第6話
捨てられた砥と本の話
藤のアパートで佐々部からの着信を見つめながら、俺は迷わず通話ボタンを押した。
「夜分遅くに申し訳ありません、宮さん」
話の佐々さんの声は、いつになくく沈んでいた。
「単刀直入に伺います。藤専務から、宮さんがの都で退職されたと連絡が入りました。……本当ですか?」
「退職届はしました。ただ、退職は来の末です。今は残っていた休を消化しているところです」
俺がそう答えると、佐々さんは受話器の向こうでく息を呑んだ。
「やはりそうでしたか。藤専務は『宮はもう現におらず、すでに引き継ぎも完した』と言っていましたよ。そして、で作らせたという試作型を、が社の量産ラインへ直で持ち込んできたんです」
胸の奥がざわりと波打った。
型の試作品は、まず精密の内でテストプレスをい、職が顕微鏡と指先で微細なバリや歪みを確認したうえで、初めて納品するものだ。それを切の作業による検品も通さず、客先のラインに直接持ち込むなど、製造業の現では絶対にあり得ない暴挙だった。
「……それで、その試作型はどうでしたか」
俺の問いに、佐々さんは苦々しい溜息をついた。
「万個を打ち抜いたところで、あのとまったく同じ筋傷がフェンダーの表面にました。
広告
塗装程に回すにラインを緊急止させましたが、すでに数千個の良品が積みがっています。藤専務を問い詰めたところ、『械加の公差内であり、都自側のプレスの押し込み圧に問題がある』と、こちらに責任を擦り付けてきました」
呆れて言葉もなかった。最の作械を使えば職などいらないと豪語しておきながら、いざトラブルが起きれば客先の械のせいにする。現の原理を何も理解していない男の、典型な逃げだった。
「宮さん、が社は精密業との基本契約を正式に破棄します。契約条項に基づき、量産止による損害賠償と違約、わせて億円を請求する続きに入りました」
億円。
精密のような堅メーカーにとっては、台骨ごと吹きぶ規模の額だった。
「……それとですね、宮さん」佐々さんの声が、さらに段くなった。「実は先ほど、藤専務が私の泊まっているホテルの部まで直接やってきましてね」
「ホテルにですか?」
「ええ。『精密はもう持ちません。ですが、私が別に経営している会社を通していただければ、から直接、従来より割く型を納品できます』と、しい名刺を置いていきましたよ」
俺の隣でじっとを澄ませていた藤が、わず「あいつ……!」
広告
と拳を握りしめた。
自社の始末で億円の違約を背負わせる原因を作っておきながら、自分だけは別会社を使って客先を横取りし、甘い汁を吸い続けようというのだ。
「佐々さん、勝なお願いかもしれませんが……その名刺、お預かりすることはできますか」
「もちろん構いません。の午、そちらへ伺います。実はお話ししたいことがありましてね」
話を切った、俺と藤は顔を見わせた。
その翌朝、精密の仕げ班にいる若い職の坂本から、携帯に話が入った。
『宮さん……! 専務の指示で、宮さんが使っていた第3ブースの作業台が撤されようとしています!』
坂本の声は、悔しさで震えていた。
『宮さんが入れしてきた油砥も、マイクロメーターも、全部「代遅れのガラクタだ」って言って産業廃棄物のコンテナに投げ込まれたんです! 俺たち、必で止めようとしたんですけど、「文句があるなら宮と同じようにクビにするぞ」って……!』
胸の奥で、カチリとたい音がした。
、毎触れ、のひらの汗と油を吸い込ませてきた具たち。
それを、と数字しか見えない男がで踏みにじり、ゴミ箱へ放り込んだ。
「坂本、具は俺の私物だ。総務に言って、処分を保留させてくれ。……いうちに、俺が全部引き取りにく」
『宮さん……待ってます。俺たち、宮さんのいないでなんて、もう働きたくないです!』
話を切り、俺はゆっくりとちがった。
もう迷うものは何つなかった。