"144枚の給与明細" 第1話
油の匂いと指先の覚
夕方のチャイムが鳴り響いても、の片隅にある第3研磨ブースの作業灯だけは灯ったままだった。
宮(あきら)、歳。自のボディやエンジン部品をプレスで打ち抜く「型」の最終仕げをがける職だ。
目のにあるのは、さ数百キロもあるたい鋼鉄の塊。最のNC旋盤や研削盤でミクロン単位まで削りされたはずの属の表面を、宮は素の差し指と指の腹で、撫でるように滑らせていく。
械のセンサーには映らない、わずか数千分のミリの歪みや、目に見えない微細な凹凸。それをじ取れるのは、以にわたって鋼を触り続けてきたの指先だけだった。
「……ここだな」
指先に引っかかる、ごくわずかなざらつき。宮は元にある油砥に量の研磨油を垂らし、首のスナップを利かせて滑らかに滑らせた。シュッシュッという、によい属の擦れる音が、誰もいなくなったに静かに響き渡る。
、宮が歳の、修していた町の型が景気で倒産した。きを失い、具箱を抱えてに迷っていた宮を拾ってくれたのが、現の会社『精密業』の創業者である現会だった。
『おのその指先を、ここで遊ばせておくのはあまりに惜しい。
広告
うちに来て、本のを支える型を磨いてくれ』
そう言ってをげてくれた会のい差しが、今でも鮮に胸に残っている。
それから、宮は脇目も振らずに型を磨き続けてきた。
朝番に社して研磨台を拭き清め、若のが止まっていれば横からコツを教え、どんな難度のい図面が回ってきても度も断ったことはない。納期が迫ればに泊まり込むのも厭わなかった。
だが、そんな宮のは、の入社初任とまったく同じ「万円」のままだった。
毎になると渡される与細の封筒。そこに印字された基本は常に万円、役職当も技術当も、にわたって貫して「0円」のまま。残業代が数万円乗るもあるが、税や保険料を引かれれば、取りは毎万円ほどにしかならない。
同代の職たちが「やってられない」と辞めていく、宮は度も文句を言わなかった。
拾ってもらった恩義がある。それに、自分が作業で磨きげた型から打ち抜かれた部品が、世界をる自になっていくのを見ることが、何よりの誇りだったからだ。賃万千円の古い造アパートで、自炊をして慎ましく暮らす分には、贅沢をしなければべていける。のために研磨を握っているわけではない——ずっとそう自分に言い聞かせてきた。
広告
「、まだやってるのか」
研磨ブースのカーテンがめくられ、穏やかな声がかけられた。
入ってきたのは、同じに途採用で入社した経理課の藤だった。宮と同いで、丸い鏡の奥に優しげな目を細めている。几帳面で数字に厳しい男だが、職たちの苦労を誰よりも理解してくれる、社内で唯腹を割って話せる親友だった。
「藤か。もう定回ってるぞ」
「決算期の伝票理が終わらなくてね。ちょっと息抜きだ」
藤は作業台の脇にある丸パイプの子に腰をろし、宮が磨き終えた鋼鉄の表面をまじまじと見つめた。
「鏡みたいだな。顔がはっきり映るよ」
「まだ仕げの段階だ。ここから番をげて、指が吸い付くくらいまで持っていく」
宮が笑うと、藤はふっと真面目な顔になり、鏡のブリッジを指で押しげた。
「……。お、自分の料の話を、本当に度もしないよな」
「またその話か。いいんだよ。会には飯をわせてもらった恩があるし、俺は磨くのが好きでやってるんだから」
「おはそうやって納得してるかもしれないけどさ……」
藤は線を落とし、さくため息をついた。
「今の予算会議、酷かったよ。藤専務がまた、型の仕げ程をすべての委託へ切り替えるって言いした」
藤——その名がた瞬、の空気がわずかにえ込んだような気がした。
「で磨く職なんて、代遅れのコストでしかないそうだ。いうちに、社内の仕げ部を完全に畳む計画をててるらしい」
「……そうか」
宮はを止めず、砥をかし続けた。
「俺のがいらなくなるなら、そのは辞めるだけだよ。潮ってやつだ」
「簡単に言うなよ」藤が眉をひそめて宮を睨んだ。「おが辞めるなら、僕も辞めるからな。腕のいい職がいない会社の帳簿なんて、つけたって何の面みもないさ」
藤の器用な友に、宮はさく苦笑いを返した。
だが、胸の奥底で、何かが静かに軋む音がしていた。