"昭和35年、高校を諦め祇園へ渡った15歳の少女" 第9話
祇園の夜と旦の
妓になってが過ぎ、昭のを迎えた頃、はお座敷の空気というものを肌で嗅ぎ分けられるようになっていた。
の腕もがり、お茶の女将たちからも「美濃のちゃんは、控えめやけど芯があって気てがええ」と評判になり、お座敷の声がかかる回数も目に見えて増えていた。
しかし、名度ががり、客たちからの女性として注目されるようになるにつれて、のの回りには、これまで見えなかったの々しいが忍び寄るようになっていた。
ある夜、祇園でも指折りの格式を誇るお茶の座敷でのお座敷が終わったのことだった。
客は、関の繊維業界で財を成したというの実業だった。
芸妓たちが引き揚げ、座敷にと男だけが残されたわずかな、男は懐から分い封筒を取りし、の膝元へと滑らせてきた。
「ちゃん。これ、好きに使いたらええ」
封筒の隙から見えたのは、聖徳太子の肖像が描かれた真しい万円札の束だった。文代の実がかけても稼げないようなが、そこにはあった。
は指先を微かに震わせながら、畳に両をついてくをげた。
「滅相もございまへん。うちのような雛鳥には、とてももったいのうございます」
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「慮せんでもええんや。美濃のお母さんにも、話は通してあるんやから」
男の濁った瞳が、の塗りのうなじを舐めるように見つめていた。
「もうすぐになるんやろ。そろそろ、ええ旦を持たなあかん期や。着物も帯も、おが欲しいちゅうもんは何でも買うてやる。……悪いようにはせえへん」
背筋に、氷を流し込まれたような寒気がった。
において「旦」を持つということ。
それは、稽古事や豪華な着物、お座敷にかかる莫な費用を面してもらう代わりに、その男性の庇護に入り、い関係を結ぶことをしていた。
かつてのでは「げ」と呼ばれ、女がの女性として扱われるための通過儀礼とされていた代もあった。戦になり、法律が変わり、そうした習は建は姿を消したとされていたが、祇園の奥い座敷のでは、今なお男たちのと欲望が絡みう暗黙の掟として、息を潜めてき続けていたのだ。
は息を殺し、封筒に切触れようとはしなかった。
「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします。そやけど、うちはまだ芸のも半でございますさかい、そのようなそれたことは……」
「気言うなよ」男の声がく濁った。「田舎の百姓の娘が、祇園の妓になったからって、いつまでもおくとまってられるとうなよ」
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その瞬、座敷の襖がすっと静かにいた。
入ってきたのは、お母さんの静だった。
静は座敷の空気を瞬に察したのか、顔に柔らかな笑みを浮かべながら、流れるように男のへと滑り込んだ。
「まあ、旦はん。こんなところでうちのをいじめてはりますのん?」
「静さん……」
「この子はまだの固い田舎もんでしてな、旦はんのようなお偉い方の謀慮も分かりしまへんのや。ほら、おは次のお座敷が呼んでるさかい、先にきなはれ」
「へ、へえ。おたの申します」
は逃げるように座敷をにし、廊へた。
背から、静が客を巧みな言葉であしらい、宥めている声がさく聞こえていた。
その夜、すべての仕事を終えて置の帳に戻ったを、静が呼び止めた。
帳の鉢には、静が吸う煙管から細い煙がちっていた。
「」
「へえ、お母さん」
静は煙管のをトントンと落とし、をじっと見つめた。
「さっきの社はんのことやけどな。……あんた、嫌やったんか」
は膝ので両をく握りしめた。嘘をつくことはできなかった。
「……怖おす。うちは……踊りとお線が好きで、懸命お稽古して、皆さんにんでもらいたくてここまで来ました。そやけど、ああいうのは……どうしても、嫌どす」
静はい沈黙の、く息を吐きした。
「せやろな。あんたはそういう子や。……ええわ。あの社はんの座敷には、もうあんたを入れへんように配したる」
は驚いて顔をげた。「お母さん……よろしいんですか? 旦はんやのに……」
静はしだけ眉を寄せ、どこか寂しげに笑った。
「うちはな、置のやりや。のために娘を差しすのが仕事やとわれとるかもしれん。せやけどな、嫌がる子を無理やり檻に押し込んでも、ええ芸妓にはならへんのや。……その代わり、あんた、芸で倍稼ぎなはれや。旦を取らんのやったら、自分の腕本でつしかないんやからな」
「へえ! おおきに、お母さん……!」
は畳にを擦り付けた。
厳しい掟に縛られたので、お母さんが差し伸べてくれたその温かい盾のありがたさに、の目からい涙がこぼれ落ちていた。