"昭和35年、高校を諦め祇園へ渡った15歳の少女" 第7話
黒紋付の朝と名披目
昭、。
見習いのヶを耐え抜いた文代の元に、ついにそのがやってきた。
「し(みせだし)」——仕込みの女が本物の妓としてにデビューする、で最も華やかで、最もなの始まりだった。
そのの朝、美濃の玄関には、贔屓筋やお茶から贈られた鮮やかな目録(めでたい絵が描かれたきなポスターのような祝儀袋)が壁面に隙なく貼りされていた。
置のは、朝から戦のような慌ただしさだった。
髪結い師が入り、文代の髪を最格式の本髪に結いげる。鼈甲(べっこう)の豪華な簪(かんざし)が幾本も挿され、歩くたびにのびらがシャラシャラと繊細な音をてた。
化粧師のによって、顔から首筋、そして背にかけて、真っなが刷毛で丁寧に塗り込められていく。たいの触に、文代の肌が粟った。
襟には、特別なにしか描かれない「本」の美しい刷毛目が引かれ、唇にはでぽってりと艶やかな赤が差された。
そして、に纏うのは、つ紋の入った最級の黒留袖——「黒紋付」だった。
男衆のによって極限まで締めげられた陣織の丸帯が、背から膝のまでだらりと美しく垂れがる。その総量はキロを優に超え、っているだけで全の筋肉が軋むほどの圧だった。
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支度がった文代が、居の畳につ指をついて座ると、正装したお母さんの静が、厳かな面持ちで文代のに座った。
静のには、枚のが握られていた。
「文代」
「へえ」
「今から、あんたはこの名できるんや」
静がを広げた。そこには、力い文字で、しい名が記されていた。
『(いちはる)』
「美濃の『』の字と、あんたがにこのに来たこと、そして厳しいを越えて必ずを咲かせるように、ちゅう願いを込めてつけた名や」
「……」
文代はその文字を、舌のでそっと転がした。
名乗り続けてきた「文代」という名を脱ぎ捨て、今から自分は祇園甲部の妓・になるのだ。それは、過の自分を半分捨てることでもあり、しいを背負うことでもあった。
「今から、その名ぁでるんやで」
静の凛とした声に、文代——いや、はくをげた。
「へえ。とお頼申します」
表の格子戸がけ放たれると、の眩しいがに差し込んできた。
男衆に先導され、静に付き添われて、は祇園の通りへと歩を踏みした。
しの初、妓はのすべてのお茶、お師匠さんの、そしてお世話になっている関係先へ、挨拶回りをしなければならなかった。
「おたの申しますー! 美濃のでおたの申しますー!」
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男衆の野太い掛け声が、畳のに響き渡る。
はおこぼをカラン、コロンと鳴らしながら、数軒に及ぶお茶の玄関をつつ回り、その都度、膝をついて々とをげ続けた。
「でおたの申します。どうぞよろしゅうおたの申します」
見物や観客が幾にも取り囲み、カメラのフラッシュが斉に焚かれた。
「まあ、綺麗なお形さんみたいや」「らしい妓さんやなあ」
歓声と溜め息が波のように押し寄せてくる。
カレンダーの写真の向こう側にいた憧れのに、自分は今、本当になったのだ。
しかし、そのい黒紋付ので、のの指先は擦り切れて激痛を放ち、締め付けられた胴体は呼吸すらままならないほど苦しかった。
華やかな拍を浴びながら、の脳裏をよぎったのは、丹の駅のホームでさくなっていく母の姿だった。
(お母ちゃん、見てるか。うち、妓さんになったで……)
その夜、すべての挨拶回りと夜のお座敷を終えて置の納戸に戻ったは、痛むで便箋と万を取りした。
の匂いが染み付いたで、故郷の両親へ向けて、いをき始めた。
『お父さん、お母さん。今、妓になりました。名はになりました。ご飯は毎たくさんべています』
そこで、万の先が止まった。
畳のに、ポタリと筋の涙が落ちた。
あの、駅の改札で母が言った言葉。『ええか、辛抱するんやで』。
は涙を袖で拭い、力を込めて最のをきした。
『うち、ちゃんと辛抱できています。弟と妹のノート代、今度送ります』
歳の。
女の本当の戦いは、ここから始まろうとしていた。