"昭和35年、高校を諦め祇園へ渡った15歳の少女" 第3話
仕込みの朝と黒話
置の朝は、町がまだ夜のに沈んでいる午に始まった。
階の納戸のような狭い部で、文代は目覚まし計の針が鳴るに目を覚ました。隣では、半先に入ったという同じ仕込みの女・千代(ちよか)が、まだ静かな寝息をてている。
文代は音をてないように布団を抜けし、え切った板のにをつけた。
仕込みの仕事は、誰よりもく起きての掃除をすることから始まる。
綿の掛けをきっちりと締め、文代はぼうきをにして表の通りへとた。まだ通りのない畳を掃き清め、柄杓で打ちを打つ。がねて着物の裾を濡らさないよう、爪先ちで軽やかにかなければならない。
玄関に戻ると、の雑巾がけ、廊の乾拭き、そして台所の回りの掃除が待っていた。
奥の座敷では、昨夜遅くまでお座敷にていた先輩の芸妓や妓たち——「お姉さん」たちが、まだい眠りのにいる。
このでは、の芸妓も妓も、すべて「お姉さん」と呼ぶのが絶対の掟だった。お姉さんたちが起きるに、顔を洗うための鉄瓶のお湯を沸かし、客用と内用の駄や履のを拭き取り、寸分の狂いもなく玄関に揃えておかなければならない。
しでも音をてたり、戸を乱暴に閉めたりすれば、奥の部から容赦のない叱責がんでくる。
広告
「文代! 音がバタバタうるさい! ここは牛と違うんやで!」
お母さんの静の声に、文代は縮みがりながら「へ、へえ!」と廊にをついて返事をした。
朝は、お姉さんたちが起きてきて優雅に箸をつけた、台所の隅に置かれたさな腰掛けで、めた噌汁と昨晩の残りのや飯を駆け込むように胃に流し込む。ゆっくりとわっているなど、どこにもなかった。
昼になると、文代のもうつのな仕事が始まった。玄関脇の帳に置かれた、黒話の番である。
ジリリリリリン!
けたたましくベルが鳴る。文代は息をえ、受話器を両で持ちげてに当てた。
「はい、美濃でございます!」
その瞬、奥の居から物差しを持った静が音もなく現れ、文代の背をピシッと叩いた。
「痛っ……!」
「何が『はい』や! 何度言うたらわかるんや! 『へえ、美濃でお頼申します』やろ!」
受話器の向こうからは、馴染みのお茶の女将さんの笑い声が聞こえていた。
『静さんとこ、しい仕込みさんかえ? 初々しくてええやないの』
「すんまへんなあ、田舎の子やさかい、の利き方もろくにらしまへんのや……。ほら文代、代わりなはれ!」
静に受話器を奪われ、文代は壁際に正座してさく震えた。
の奥がくなり、悔しさとけなさで涙が滲みそうになる。、当たりに使ってきた自分の言葉が、ここでは何つ通用しない。
広告
「はい」「わかりました」「ごめんなさい」——そのすべてが否定され、異国の言葉のようにしい言葉をに叩き込まなければならなかった。
夕方くなると、(おしろい)の甘いりがのに満ちてくる。
お姉さんたちが艶やかな着物にを包み、お座敷へとかけていくだ。
文代は玄関のつ指をついてつ指を揃え、を畳に擦り付けるようにして見送らなければならない。
「お姉さん、ってらっしゃいませ……」
わずそう言ってしまうと、通りかかった売れっ子芸妓の菊(やえぎく)が、涼やかな流し目で文代を見ろした。
「文代ちゃん。『おたの申します』やろ。ほな、ってきます」
からりと格子戸がき、絹の擦れる擦れの音とともに、お姉さんたちの帯が夕のへと消えていく。
畳のに、ぽっくり駄の「おこぼ」の乾いた音がカラン、コロンと響き渡った。
文代はその音を聞きながら、たい玄関のがりかまちに額を押し当てていた。
(うち、本当に妓さんになれるんやろか……。お母ちゃんの梅干し、べたいな……)
故郷の々の匂いが、胸の奥でくかすんでいくようだった。