"認知症の父を選んだ私を捨てた夫、5年後の再会" 第13話
元夫が泣いた理由
「……もう、無理なんだよ」
ふいに、郎のから掠れた呟きが零れ落ちた。
その声は、私がかつてっていた彼のどの声とも違っていた。威張り散らすような傲さも、を馬鹿にするような響きもない。ただひたすらに、い鉛を呑み込んだような絶望だけが滲んでいた。
「郎さん……?」
「もう限界なんだよ……全部……」
郎は糸が切れた操り形のように、ロビーの革張りソファにどさりと崩れ落ちた。
「毎毎……朝起きた瞬から同じこと聞かれるんだ。『ご飯はまだかい』『財布を盗まれた』って……。さっき説したことを、分にはまた同じ顔で聞いてくるんだよ」
誰も言葉を挟まなかった。さやさんも、息を潜めてその背を見つめている。
「夜に玄関がく音で臓がねがるんだ。慌ててび起きて、真の暗のをパジャマのまま探し回って……。に連れて帰って、ようやく布団に入っても、いつまたていくかとうともできやしない。仕事も携帯が鳴るたびに吐き気がした。『またお母さんが保護されました』って警察から連絡が来るんじゃないかって……」
握りしめられた郎の拳が、刻みに、激しく震えていた。
「会社を辞めれば、しは楽になるとったんだよ。母さんのそばにずっとついててやれるって……。でも、違いだった」
広告
逃げが、完全に消えたのだ。
、狭いアパートので、狂っていく母親ときり。
減っていく通帳の残。途絶えた収入。世との繋がりはすべて断ち切られ、友たちにわせる顔もない。
「たまにさ……」
郎は両で顔を覆い、指の隙から嗚咽を漏らした。
「……このまま、母さんが帰ってこなきゃいいのにって……っちまうんだよ」
さやさんが息を呑んだ。
「本気じゃない! 本気じゃないんだよ! いなくなったら結局、俺が半狂乱になってを探し回るんだ! 見つかった瞬は底ほっとして、涙がるくらい嬉しいんだよ! なのに……に連れて帰って、同じこと何度も繰り返されたら……また鳴りつけちまうんだ。『いい加減にしろ!』って……」
指の隙から、粒の涙がぽたぽたとズボンに染みを作っていく。
「俺……最の息子だよな。実の親に向かって、んじまえばいいなんてうなんてさ……として終わってるよな……」
私はゆっくりと歩み寄り、ソファのにしゃがみ込んだ。
「最なんかじゃないわよ」
「……え?」
「限界なだけ。それくらい、で介護を抱え込むっていうのは恐ろしいことなのよ」
介護殺やといった痛ましいニュースを見るたび、私は決して事だとはえなかった。
がないからではない。憎んでいるからでもない。
逃げのない閉鎖空で、眠りすら奪われ、精神を極限まで削り取られたは、誰だって壊れてしまうのだ。
広告
「でも……おはちゃんと乗り越えたじゃないか」
郎が涙でぐしゃぐしゃになった顔をげた。
「おは親父さんを見捨てずに、社にまでなって……俺とは違うだろ!」
「違うわけないでしょ」
私ははっきりと首を横に振った。
「さっきも言ったじゃない。私で乗り越えたことなんて、何ひとつないって」
ケアマネジャーさん、デイサービスのスタッフ、訪問護師さん、主治医の先。
愚痴を聞いてくれた商の仲たち、支えてくれたパートさんたち、そして、背負い込みそうになる私を押しとどめてくれた今の夫。
「数え切れないほどのたちに助けてもらったのよ。で抱え込んでいた頃の私は、あなたよりもずっと酷かった。父を鳴りつけて、部に閉じこもって、消えてしまいたいって毎ってた」
「嘘だ……」
「本当よ。だから、私は専の窓に助けを求めたの。今あなたがここに来たのも、本当はそのためだったんでしょ?」
郎は言葉を失い、ただ力なく頷いた。
実は数、さやさんから聞いていたのだ。「所に認症のお母さんをで介護して、今にも倒れそうな息子さんがいる」と。さやさんは昔、そのお母さんに料理を振るってもらったことがあり、酷く配していた。
まさかその息子が郎だったとはにもわなかったけれど、彼がこの交流会にを運んだのは、のどこかで「もう限界だ、誰か助けてくれ」
と叫んでいたからにならない。
「今の交流会にはね、たくさんの専や域の事業所が来てるわ」
私は郎の目をまっすぐに見つめた。
「相談してみなさいよ。今からでも、ちっとも遅くないわ」
「今さら……? もで頑なに抱え込んできて……母親を施設に入れるなんて、親孝な息子だってろ指さされるだろ……」
「誰もそんなこと言わないわよ」
その瞬、郎の体から何かがぷつりと切れた。
彼はそのに膝から崩れ落ち、ロビーの絨毯に額を擦り付けるようにして、子どものように声をげて泣き崩れた。
「助けてほしかった……っ! どうすりゃいいか分からなかったんだよ……! 誰にも言えなくて……怖くて……ずっと逃げしたかったんだよぉ……っ!」
かつて、で音を吐くを「負け犬」と見していた男が。
プライドも体面もかなぐり捨てて、目も憚らず慟哭していた。
そのだった。
ぐううぅぅ――と、けないほどきな腹の虫が鳴り響いた。
泣きじゃくっていた郎自が、驚いたようにしゃくりげながら固まる。
「おじちゃん、お腹いたいの?」
トコトコと歩み寄ってきた律が、議そうに郎の顔を覗き込んだ。
「だ、丈夫だよ、律」
私が苦笑いしながら止めようとすると、律は背のリュックのファスナーをよいしょとけた。
から取りしたのは、ラップに包まれたさなアルミホイルの包みだった。
「これ、あげる!」
律はさな両で、その包みを郎へと差しした。
「え……? い、いいよ、坊ずの飯だろ……」
「ぼく、もういっこあるから平気! おじいちゃんの唐揚げが入ったおにぎりだよ」
律は無邪気な満面の笑みを浮かべて言った。
「お腹がペコペコだとね、しい気持ちがもっときくなっちゃうんだって、ママが言ってた!」
その言葉が、郎の胸の奥くに突き刺さったようだった。
郎の顔が、再び激しく歪んだ。
さな子どもののひらから差しされた、まだほんのりと温かいおにぎり。
、「おなんかより俺の方がずっと順調だ」と勝ち誇っていた男が。
いま、震える両でそのおにぎりを受け取り、ぼろぼろと粒の涙を溢れさせながら、額に押し頂くようにしてをげた。
「……ありがとう……ありがとうな……っ」
その掠れた声は、ロビーの喧騒のに静かに溶けていった。