"認知症の父を選んだ私を捨てた夫、5年後の再会" 第2話
父のさな
父、青裕介は、もともと都内の老舗ホテルで腕を振るっていた料理だった。
母が病気でくなったのは、私がまだ学のときのことだ。
父はしばらくホテル勤めを続けていたが、あるふいに「を辞める」と言いした。
「どうして? せっかくホテルのシェフなのに」
幼い私が尋ねると、父はし困ったように眉をげて笑った。
「ホテルだと朝もいし、帰るのも夜になるだろ。都子がで晩ご飯をべるが増えちまったからな」
「私のために辞めるの?」
「半分はな」
そう言って、父はきなで私のをぽんぽんと撫でた。
「あとの半分は、自分のを持ってみたかったんだ。さくても、お客さんがべてる顔をすぐそばで見られるようなをさ」
「べてる顔?」
「お母さんもそうだったけどな、本当に美いものをべたってのは、ちょっとだけ幸せそうな顔をするんだよ。俺はあの顔を見るのが番好きなんだ」
その言葉通り、父は町の商のれにさなをいた。
の名は「キッチン青」。
カウンターとテーブルをわせても席に満たないだったが、お昼になれば隣のサラリーマンや顔なじみの常連客でいつも満席になった。
学が休みのになると、私はエプロンをつけてを伝った。
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「都子、危ないからい皿には触るなよ」
「丈夫、私だって板娘なんだから」
「自分で言うやつがあるか」
厨の湯気と炒めた玉ねぎの甘いりに包まれながら、でよく笑いったものだ。
私は父のが好きだった。
をてすぐに調理師の専学へみ、資格を取ったのも、いつかこのを父と緒に継ぎたいとっていたからだ。
けれど、資格を取ったからといってすぐに父と同じがせるわけではない。何も厨にち続けてきた父の加減や付けは、レシピの数字には落とし込めない勘と経験の世界だった。私はホールのに仕込みを伝い、皿洗いをしながら、父の背を見つめ続けた。
そんなに、繁く通ってくれるの客がいた。
郎。
くの商社に勤めているらしく、注文は決まって「ミックスフライ定」か「替わり」のどちらかだった。
「都子ちゃん、今の替わり何?」
「今は煮込みハンバーグですよ」
「じゃあ今は浮気してみようかな」
「ミックスフライからですか?」
「そう。にはちゃんと戻るから」
そんなのない軽を叩く、気さくでのいい常連さんだった。忙しい帯でも無理を言わず、私が粗相をしておをこぼしてしまったときも「いいよいいよ、気にしないで」と笑って流してくれるようなだった。
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あるの午、ランチのピークが過ぎて客が途絶えたときのことだ。
お会計を済ませた郎さんは、なぜか伝票を握ったまま、なかなかちろうとしなかった。
「あのさ、都子ちゃんって曜が休みだよね?」
「ええ、定休なので基本はそうですけど」
「今度の曜って、何か予定ある?」
唐突な問いに、私は首をかしげた。
「買いしにったり、の掃除をしたりくらいですけど……どうしてですか?」
「あ、いや、そのさ」
いつも調子よく話す郎さんが、珍しくごもった。
「もしよかったら、今度緒にご飯でもどうかなとって」
「私と、ですか?」
「そう。ので、で」
「どうして……?」
「それを本に聞くかなあ」
照れくさそうにを掻く姿がどこか微笑ましくて、私もわず吹きしてしまった。
それが、すべての始まりだった。
付きい始めた頃の郎さんは、驚くほどマメで優しかった。
映画を観にくときは見やすい座席をもって予約してくれたし、事にけば自然に奥のソファ席を譲ってくれた。混みでは私をかばうように側を歩き、え込む夜には自分のマフラーを私の首に巻き直してくれた。
こんなに切にしてくれると緒になれたら、きっと温かい庭が築けるはずだ――そう信じて疑わなかった。
交際からが経った頃、郎さんからプロポーズを受けた。
「都子、俺と結婚してほしい」
迷いなく「はい」と頷いた私を、父もから祝福してくれた。
ところが、両の顔わせを終え、活の準備を始めた矢先のことだった。
郎さんがふと、い詰めたような顔で切りしてきたのだ。
「あのさ、都子。の仕事、辞めてくれないかな」
「……え?」
「だってあそこ、男の客ばっかりだろ。サラリーマンとかさ」
「常連のお客さんたちだよ?」
「都子は男のことを分かってないんだよ。俺みたいに、都子目当てで通ってくるやつだっているかもしれないだろ」
最初は冗談かとって笑いばそうとした。けれど、郎さんの目は本気だった。
「俺、自分の妻がほかの男にを振りまいてるの、どうしても嫌なんだよ」
「を振りまいてるんじゃなくて、接客の仕事だよ」
「同じことだろ。それに、結婚したら子供ができるかもしれないし、休みのは夫婦入らずで過ごしたいじゃないか」
「でも……私、いつかお父さんのを継ぎたいって話してたよね?」
「それは、俺と会うの話だろ?」
声のトーンは静かで穏やかだった。
けれど郎さんは、私が何も積みねてきた切ないを、「独代の戯れ言」であるかのように、ひとつ、またひとつと片付けていった。
極めつけに、彼は私を試すようにこう言ったのだ。
「俺との結婚活より、あのをとるわけ?」
そう言われてしまうと、当の私には返す言葉が見つからなかった。
苦しい胸の内を父に打ちけると、父はるでもなく、静かに聞いてくれた。
「都子が決めたことなら、それでいい。のことは俺でどうとでもなるさ」
「……ごめんなさい、お父さん」
「謝るなよ。結婚はおのなんだからな。自分で選んだなら、ちゃんと幸せになるんだぞ」
父の優しい言葉に背を押されるようにして、私はエプロンをした。
自分がそのとき、どれほどかけがえのない居所を放してしまったのか、当の私はまだ何ひとつ気づいていなかった。