"朝霧湯、最後の暖簾" 第10話
最の簾
警報が鳴ったあと、正は客のいないつの浴槽を確かめてから、入に戻った。
澄子が番台で売を数えている。千絵は毛布を畳み、濡れたを拭いていた。いつもと同じ閉の仕事だった。ただ、の湯の仕込みがないだけだ。
「釜は止めた」と正が言った。
澄子はを止めた。
「そう」
そのい返事に、正は妻の疲れをじた。は、緒に番台を守ってきた。のことなら何でも分かっているつもりだったのに、今夜初めてらないのように見えた。
「無理をしなくてよかったわ」と澄子が言った。「ちゃんと最のまでてくれたもの」
正は奥へ入り、濡れたぬぐいを絞った。釜の音がしない呂ほど寂しい所はないと、いつか父が言っていた。その言葉のが今ようやく分かった。湯気が消えると、タイルの継ぎ目や壁のひびが妙にはっきり見える。
ではが積もり始めていた。
「送っていくよ」と千絵が言った。
最までに残っていたウメが、慮がちに笑った。
「で帰れるよ」
「坂のところ、凍ってるから」
正は套を取った。
「俺がく。千絵は片づけを頼む」
はをゆっくり歩いた。ウメは呂敷を胸に抱え、元を見ながら歩いた。いつもよりい帰りだった。
途、ウメが言った。
「島田さん。私の旦がんだ晩のこと、覚えてるかい」
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正は首を振った。もうものことだという。
「あの、何もする気にならなくてね。夕方、気づいたら朝湯のにってたの。先代さんが、何も聞かずに入れてくれた」
正は、き父の姿をい浮かべた。何か言葉をかけたのだろうか。
「湯に入ったからしくなくなったわけじゃないよ。帰ったら、は相変わらず空っぽだった。でもね、帰るときに『また』って言われて、それでまできてみようとえたんだ」
ウメは振り返らずに話した。
「だから、が閉まるのは寂しい。でも、島田さんたちが倒れるまで焚いてほしいとはわないよ」
正はを止めた。
「俺はな、ウメさん。自分がを閉めたら、親父に申し訳ないとってた」
「そりゃそうだろう。事なだもの」
「だけど、何が事なのか、分からなくなってきた」
ウメは笑った。
「なくとも、釜よりのほうが事だよ。釜は直せることもあるけど、は無理をしすぎると戻らないからね」
正はうなずき、再び歩き始めた。
ウメのへ着くと、の廊で由美が待っていた。さな子どものを引いている。彼女は呂の入で受け取った朝湯の営業予定を持っていた。
「島田さん。ここのたちと相談して、来週の予定をまとめようとうんです。必なら私も役にきます」
「仕事があるだろう」
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「あります。でも、子どもの呂のことは私にも関係があるから」
正は驚いた。これまで客はに来て、入浴料を払い、帰っていくだけだとっていた。困っているも、ただ助けられるのを待っているわけではなかった。
朝湯に戻ると、のに宮田がっていた。
「終わったか」
「ああ」
「どうだった」
「みんな、何とか入ってくれた。来られなかったもいた」
宮田はうなずいた。
「そうか。うちも、同じだろうな」
は、しばらく簾を見げた。紺の布の端がに揺れ、の名だけがく浮かんでいる。
「は朝湯を頼む」
正が言うと、宮田は笑った。
「分かった。だが、おも仕事はあるぞ。来るに所をらせてくれ。まで歩けないをどうするか、町と緒に考えてくれ」
正はくうなずいた。
宮田が帰ったあと、正は簾をした。畳むと、布は驚くほど軽かった。毎掛けているときは、そこに何分もの仕事がぶらがっているようにえたのに。
台所では、澄子が遅い夕飯を用していた。炊きたてではないご飯と、昼の残りの煮物。は湯みを並べ、しばらく黙ってべた。
「お父さん」と千絵が言った。「今夜、何入った?」
澄子が帳面をいた。
「予定よりなかったわね。で来られなかったもいたから」
「売は?」
正が尋ねると、澄子は数字を告げた。
今夜のために使った燃料やのを考えれば、利益はほとんど残らない。
正は帳面を閉じた。
「それでも、けてよかったとう」
澄子は驚いたように見た。
「珍しいことを言うのね」
「商売としては、いい夜じゃなかった。でも、何を失うのか分かった気がする」
千絵がそっと聞いた。
「もう、本当に閉めるの?」
正はし考えて答えた。
「から釜は止める。再できると請けいもしない。まずは残った勘定を片づけて、来からの暮らしを考える」
澄子はうなずいた。
「緒に考えよう」
その夜、正は番台の引きしから古い札を取りした。父がしたころに使っていた札で、裏には墨でくかれている。
『湯を沸かすことを仕事とうな。を迎えることを仕事とえ』
正はそれを読んで、しばらく目を閉じた。
父が守りたかったのは、灯油でも、タイルでも、昔の簾でもなかったのかもしれない。
正は札を仕い、玄関の灯りを消した。
は相変わらずだった。今夜、朝湯の釜に再びが入ることはなかった。