"朝霧湯、最後の暖簾" 第3話
の向こうの呂
町にはもう軒、公衆浴があった。川を挟んだ向こう側の朝湯である。
主の宮田は正より歳若い。ふだんは浴組の会で顔をわせるだけで、親しい付きいはなかった。朝湯はしい宅がい区にあり、客は朝湯よりないが設備がしい。油を燃料にしたきなボイラーを使っていた。
、町内の浴主たちが組の集まりに呼ばれた。県へ料改定を求めるため、経営の実態を報告するという。
正は伝票を持っていった。宮田も、みのある帳面を机に置いた。
「値げが認められるころには、が軒も残らんぞ」
別の主が言った。
組は困った顔で説した。
「県には何度も事を伝えている。しかし統制料だから、ここだけ勝に変えられない。料の軽減や融資の話もている」
「借して湯を沸かせっていうのか」
正の声が部に響いた。宮田が静かにをいた。
「うちは先週から営業を減らした。休むを決めて、燃料を節約している」
「おのところは自呂のある客がいからな」
正はつい言ってしまった。
宮田は眉をげた。
「客がないほうが楽だとっているのか。湯を杯にする燃料は同じなんだぞ」
その言葉は正しかった。正は分かっていたが、素直にはうなずけなかった。
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会の帰り、宮田がのところで声をかけた。
「島田さん。そっちは呂のないがいだろう」
「それがどうした」
「朝湯が休むは、こっちへ客を回してくれていい。できるだけ営業をずらそう」
「がある。の悪い寄りは渡れん」
「なら、運ぶ方法を考えりゃいい」
正は苦笑した。
「客を運ぶのにをしたら、また燃料がるじゃないか」
宮田は何も言い返さなかった。正自、そので言い返してしまったことがけなかった。
へ帰ると、千絵が玄関でを広げていた。町営バスの刻表である。
「お父さん、朝湯へく便、夕方はないね」
「誰に聞いた」
「ウメさん。昨、休むならどうしたらいいかって聞かれたの」
「受験勉はどうした」
「終わった。これだけ調べたかったから」
千絵は線図を示した。を渡るから朝湯まで、留所はつ。しかし古いのある坂区からは、バスへるだけで分以かかる。夕方の最終便では帰れないもいる。
「だから母さんが、うちを休ませたくないんだよ」
「お母さんだけじゃないよ」
千絵は父を見た。
「お父さんだって、本当は嫌なんでしょう」
正は「らん」と言って釜へ入った。
その夜、じまいのあとで澄子と千絵は脱に座った。洗濯した拭きが積みになり、壁の扇にはいほこりがついていた。
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「さんが協力してくれるなら、相談してみたら」と澄子が言った。
「そもそもを運ぶがない」
「町に福祉関係のがあるかもしれない」
「役に何でも頼めるとうな」
澄子は、拭いていた鏡を置いた。
「頼むことと、甘えることは違うわ」
正は返す言葉を探したが見つからなかった。
その夜遅く、正はの奥の押し入れをけた。い箱には、先代のころ使っていた鉄製の掻き棒が残っていた。父は薪を焚くころ、毎朝まだ暗いうちに起きて釜のへった。戦もないころは薪も分にに入らず、製材所の余りを集めて回ったという。
正が子どものころ、父がよく言った。
『うちはお湯を売ってるんじゃない。の仕事へける体にして帰すんだ』
その言い方が、正にはげさに聞こえた。客はを払って湯に入り、体を洗って帰る。呂はそれ以のものでも、それ以のものでもないとっていた。
ボイラーを入れ替えた、父はすでにくなっていた。正はしい械ので、古い掻き棒を捨てようとした。けれど澄子が『お父さんの使ったものをつくらい残しておこう』と言ったので、押し入れにしまった。
いま見れば、ただの鉄の棒だ。これを持ちしたからといって薪で湯が沸かせるわけではない。炉も煙も昔とは違う。
いつきでを起こせば危険だということくらい分かっていた。
正は掻き棒を箱へ戻し、ゆっくり蓋を閉めた。
『便利になったら、もう元には戻れないんだな』
ひとりごとのように言うと、廊に澄子がっていた。
「戻る必なんてないのよ」と澄子は答えた。「お義父さんだって、私たちがいつまでもあの釜ので苦労するのを望んだかしら」
正は笑った。
「いや。きっとしいボイラーを見て、うらやましがっただろうな」
のに、久しぶりに穏やかな沈黙があった。
翌朝、朝湯の宮田が朝湯へ来た。には属のさな部品を持っている。
「古いバーナーの噴射、まだそれを使ってるのか」
「使っている」
「点検だけでもしておけ。燃焼が悪いと燃料を余計に使う」
「親切のつもりか」
宮田は正をまっすぐ見た。
「こっちも来どうなるか分からん。互いにを張ってるじゃないだろう」
正はし黙り、戸をけた。
「入れよ。寒い」
は釜へ入った。宮田は配管にを触れ、燃焼の記録を見た。そのあと言った。
「この設備は季が入ってる。途で止めたりかしたりを何度も繰り返すと、かえって危ない。省エネのつもりで素いじりはするな」
正はうなずいた。
「分かってる。だから困っているんだ」
宮田は答えなかった。ただ、ししてから言った。
「片方だけ助かる方法じゃなくて、軒で持ちこたえる方法を考えよう」
そのの午、町の担当から話があった。朝湯と朝湯の経営状況を聞きたいという。料の話だけではない。呂のないにむ齢者がどれほどいるか、調べ始めたらしい。
正は受話器を握ったまま、初めてった。
油がりないのは自分のだけではない。町全体が、今まで誰も気にかけなかった暮らしの仕組みを失いかけているのかもしれない。