"朝霧湯、最後の暖簾" 第2話
値げできない呂
の朝湯がこんな姿になるとは、正はまで考えてもいなかった。
、聞がの戦争と原油の供を伝え始めたころ、朝湯にはまだ毎晩百い客が来ていた。景気のいいころに比べればないが、夫婦で暮らしていくには分だとっていた。
ところがに入ると、仕入れの伝票が変わった。灯油の単価ががり、配送量に限が付いた。久保田燃料の社は、事務所で正に何度もをげた。
「うちも元売りから来る量が減ってるんです。配達を減らすしかない」
「朝湯は病院じゃないが、町のの暮らしに必なんだぞ」
「それは分かっています」
男はそう言って、割り当て表を指で押さえた。診療所、老の暮らす施設、豆腐。どこにも燃料を必とする理由がある。
「なら、せめて値がり分を客からいただくしかないか」
正は帰って澄子に相談した。
だが澄子は首を振った。
「公衆浴の入浴料は、私たちだけで勝にげられないでしょう。県が決める限があるのよ」
分かっている。正も浴組の会で何度も聞かされていた。入浴料が統制されている以、町の商のように仕入れががった翌から札を掛け替えるわけにはいかない。
「組から料改定の望をす。
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そうでもしなきゃ、うちが潰れる」
「改定が決まるまで、何かかかるの」
「らん」
「そのに、お寄りはどうするの」
正はわず声を荒らげた。
「じゃあ、うちの子の学費は誰が払うんだ!」
台所の入に千絵がっていた。とも、彼女が帰っていることに気づかなかった。
千絵は平気な顔をして言った。
「私のことは、ちゃんと考えてるから」
「何を考えてるんだ」
「護学、奨学を調べてる」
正は聞をたたんだ。娘はの指導で、隣県の護学を受けるよう勧められていた。正の父は若いころ病気で倒れ、医者が来るにくなった。千絵がをる仕事に憧れるのを、正は誰よりもんでいた。
「学費ぐらい、お父さんがすと言ったろう」
「それは分かってる。でも今は――」
「今がどうした。子どもがの配をするな」
千絵はを閉じた。
その翌、正は町内を歩いて、昔の客がどうして来なくなったのか、初めて自分から確かめた。
坂のにはしい宅が建ち並び、玄関の脇に湯器が付いている。以、毎晩必ず顔を見せた若い夫婦がいた。正が声をかけると、妻のほうが申し訳なさそうに笑った。
「にお呂を付けたんです。子どもがさいから、どうしても」
「そりゃ便利だろう」
「でも、おじいちゃんは朝湯へきたがるんですよ。のお呂はきりでつまらないって」
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正は、そのの玄関を見た。浴の窓からい湯気がしだけがっている。若い庭に自呂が付くのはばしいことだ。子どもを連れてのを歩かずに済む。正はその便利さを悪く言うつもりはなかった。
次に訪ねた畳の主は、から腰を悪くして朝湯へ来ていないと言った。
「呂が嫌いになったわけじゃない。坂をるのがきつくなっただけだ」
正は返事に困った。客が減るという数字の裏には、呂がにできたも、呂へ来る力を失ったもいる。そのを同じ『来なくなった客』として数えていたのだ。
の角には、以さな銭湯があった。に閉じ、今は駐になっている。正は当、経営のな呂だったのだとった。だが、そこへ来ていたたちは、今どこで体を洗っているのだろう。油危が起きるから、町の暮らしはしずつ変わっていた。
へ戻ると澄子が「何か分かった?」と聞いた。
正は子を脱いだ。
「うちが潰れそうなのは、油だけのせいじゃないんだな」
「そうね。でも油が来なくなったら、考えるさえもらえない」
正はその言葉を受け止めた。変化は何もかけて起きたのに、最の押しだけが突然やって来る。今まで見ないで済ませた現実が、全部いっぺんに番台へ押し寄せていた。
その晩、澄子は帳面をき、入浴者の数をにちごとにき直した。正は灯油の使用量を別のに記録した。の数字は、同じのものとはえないほど違っていた。客がのものも、湯を張り直すだけで定の燃料が必だった。
朝湯は昭に先代から引き継いだだ。古い焚きを使っていたころは、所の製材所が端材を分けてくれた。、型の灯油ボイラーへ替えたとき、正は代にった仕事ができるとんだ。の番が軽くなり、湯温も定した。女湯の客からすぎると叱られる回数も減った。
それが今は、その便利さがの首を絞めていた。
初め、所の乾物の主が、トイレットペーパーの棚を空にした客の話をした。
「米も洗剤もがるってみんな言うんだ。実際に何がりないか、誰にも分からん」
正はその話を笑えなかった。灯油がへ届かないという事実だけは、毎週の伝票に数字となって現れていたからだ。
澄子は脱に『できるだけ湯を切にお使いください』といたを貼った。何かは協力してくれたが、洗いの湯を使わずに呂へ入ることなどできない。に関わる部分は削れない。
ある夜、ウメが番台で銭を数えていた。
「今の分、しりないかもしれん」
「いいよ、で」
澄子が言うと、正は横からを挟んだ。
「ただにするな。あっちにも、こっちにも甘くしたら、がもたん」
ウメは「そうだねえ」と笑い、来たを戻っていった。澄子は正を責めなかった。ただ、あとで帳面の端に『ウメさん、本入浴せず』といた。
その字を見た正は、初めて自分が言ったことを悔した。
、ウメがい袋で湯札を差ししたとき、正は言った。
「寒かったろう。今は番呂に入りな」
ウメはし驚き、それから「ありがとう」とをげた。
だが客が湯に沈む音を聞きながら、正は釜で灯油の目盛りを確かめ続けていた。ひとりの体が温まるほど、残りの量が確かに減っていく気がした。