"110億円を相続した妻を捨てた夫――30億円の誤算" 第2話
緑の切れと見えない刃
私は荒げることもなく、靴音を忍ばせることもなく、静かにリビングのドアノブにをかけた。
カチャリ、というたい属音が内に響く。私が無表のまま扉を押しけると、ソファでふんぞり返っていた達也と、テーブルにを乗りしていたかずが、弾かれたようにびがった。
「うわっ……! な、なんだよ美桜、帰ってたのかよ。音もてずに入ってきやがって」
達也は瞬だけ狼狽の表を浮かべたが、すぐに眉を吊りげ、き直ったように胸を張った。
「まで声が筒抜けでしたよ」
私が極めて平坦な声で告げると、達也は悪びれる様子もなく、嘲笑をそのい唇に張り付かせた。
「へえ、聞いてたなら話がい。おい美桜、今でおとはお別れだ」
達也はリビングテーブルの引きしを乱暴に引きけ、あらかじめ用されていた枚の類を引っ張りした。それは、夫の署名と押印がすでに済まされている、緑の枠線が印刷された婚届だった。
ペシッ、と乾いた音をてて、婚届が私の元のフローリングへ投げ捨てられた。
「さっきも言った通り、慰謝料も財産分与も銭もさないからな。おみたいな何の資格も能もない女を、今までわせてやっただけでも謝してほしいくらいだ。さっさとサインして、このからてけ」
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傍らにつかずも、勝ち誇ったように腕組みをして私を見ろした。
「そうよ! 達也にはね、企業の社令嬢である麗さんという素らしいお相がいるのよ。持参千万円を持ってきてくださるの! あんたみたいな貧乏がいつまでも図々しく居座っていいじゃないのよ。アパートのゴミ箱でも漁って惨めに野垂れになさい!」
の顔に浮かんでいるのは、これからに入るはずのと位への浅ましい妄と、私を完全に踏み躙ったという品な優越だけだった。
私がにした黒革のアタッシュケースのに、彼らの像を絶する百億円もの富が眠っていることなど、にもっていないのだ。そして、彼らが「実力」だと信じ込んでいる会社の億円の融資枠が、誰の犠牲のに成りっていたのかすら、る能を持たない。
でを稼ぐ男が偉く、にいる妻は無力だから、のある女に乗り換えるのは当然の権利だ——彼らは本気でそう信じ切っていた。
私は元に落ちた婚届を、たい瞳で見ろした。
これまで、義母の度なる嫌や理尽な事の押し付けに耐えてきたのは、ひとえに庭の調を守り、夫を支えたいというからだった。しかし、恩義を仇で返し、目先の銭のためにの真を蹴にする者たちに、これ以の慈をかける理由は微もない。
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「わかりました」
私は静かにをかがめ、婚届を拾いげた。
「おいおい、泣き叫んで座でもして縋り付いてくるかとったら、案物分かりがいいじゃないか。自分が役たずだって自覚はあったんだな」
達也がでせせら笑うのを完全に無し、私はアタッシュケースを台座代わりにしてテーブルのに置き、コートの内ポケットから本の万を取りした。
叔父から贈られた、純のペン先を持つな万。
カリカリ、カリカリ……。
静まり返ったリビングに、万が滑らかなインクをらせる音だけが規則正しく響いた。私の氏名、、本籍。分の迷いもなく、流れるような美しい文字で空欄を埋めていく。
その音は、この欲な親子をかしてきた見えない命綱を、音もなく両断する処刑の刃の音でもあった。
最に実印を鮮に捺印すると、私は用を取りげ、達也の胸元へ放り投げた。
「今すぐ役所へ提してきてください」
「ふん、言われなくてもそうするさ! がりやがって負け犬が! 度とこのの敷居を跨ぐんじゃないよ!」
背から浴びせられる義母の罵声を背に受けながら、私は度も振り返ることなく玄関へと向かった。
ガチャリとドアを閉め、たい気のにをさらした瞬、私の肺腑を満たしていた最のが、い吐息となって完全に吐きされた。
彼らは千万円のために、百億円の富を自らドブに捨てた。
そして、もなく訪れる週けの朝、彼らがっている面そのものが完全に崩壊しているという事実に、彼らはまだ気づいていなかった。