"110億円を相続した妻を捨てた夫――30億円の誤算" 第1話
扉の向こうの密談
初のたい枯らしが吹きすさぶ午、私はい取りで私鉄沿線の宅を歩き、がへと戻ってきた。に提げた質な黒革のアタッシュケースの取っを握りしめる指先が、寒さとは別の種類の緊張でかすかにくなっている。このケースのに収められているのは、先ほど都の法律事務所で正式な交付続きを終えてきたばかりの、私宛ての遺産相続確定類式だった。
くなった母方の叔父は、代で世界な規模へと成を遂げた巨複企業・神堂(しんどう)グループの最顧問を務めていた物だった。幼い頃に両親をくして親族を転々としていた私を、唯無ので見守り、慈しんで育ててくれた恩である。その叔父がこの世をり、遺言執から告げられた相続財産の総額は、産、価証券、現預をわせて百億円にのぼっていた。
本来ならば、私は神堂グループの正統な継者として君臨するにあった。しかし、私は自らの柄や莫な富を切隠し、ごく平凡な系の専業主婦「美桜(みお)」として、夫の郷田達也(ごうだ・たつや)と結婚したのだった。
結婚当初、達也が脱サラしてちげた精密器加会社「ゴーダプレシジョン」は、バブル崩壊の余波と取引先の渡りにより、創業わずかで破産寸の危に追い込まれていた。
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毎晩胃薬をあおり、を抱えて涙を流す夫の姿を見ていられなかった私は、叔父にをげ、叔父の個定期預を担保としてメガバンクに差し入れてもらうことで、極秘裏に億円もの特別信用保証融資枠を引きした。その莫な資力という命綱があったからこそ、会社は奇跡に息を吹き返し、今まで続することができていたのだ。
しかし、最になって再びの設備投資と部材騰により資繰りが悪化し、達也は「今を乗り切るがない」とひどく憔悴していた。だからこそ私は、にした百億円の遺産で夫の会社の負債をすべて完済し、今度こそで肩の荷をろして平穏な活を築こうとに誓い、この類を抱えて急いでへ帰ってきたのだ。
ところが、玄関の鍵をけてを踏み入れた瞬、静まり返った廊の奥、リビングの引き戸の隙から、を疑うような声が漏れ聞こえてきた。
「達也、いつまであの役たずといる気だい? く婚届を突きつけて追いしなさい!」
甲く、品のない笑いを孕んだ義母・かずの声だった。私はわずを止め、え切った玄関ホールで息を殺した。
「分かってるよ、母さん。あんなで円も稼げない女、最初からしてなんかいなかったんだ。飯がえるだけでありがたくえって話だよ」
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続いて返ってきたのは、ならぬ夫・達也の、笑に満ちた声だった。私の胸が、氷の杭で気に貫かれたような激痛に襲われる。
「取引先の社令嬢である麗さんが、あんたになのよ? あのお嬢さんと再婚すれば、持参として現千万円が転がり込んでくるのよ。会社の運転資にもなるし、私たちもれてセレブの仲入りじゃないの!」
「ああ。麗の父親からも、追加融資の利きをしてやるって約束を取り付けたところだ。美桜みたいな貧乏神、今にでも緑のにサインさせて、着の着のままで追いしてやるよ。慰謝料も財産分与もビタ文払うつもりはないからな」
「そうよ、当然よ! あんなみすぼらしい女に払うなんて円もないわ!」
リビングの扉越しに、を叩いて歓する親子の笑いが響き渡る。
にしたアタッシュケースが、途方もないみを持って私の腕にい込んだ。夫を救うために百億円の類を胸に抱えて帰宅した妻に対し、わずか千万円の切れ目当てで、無文で叩きそうと謀議を巡らせる夫と義母。
彼らは私を、都が悪くなればいつでも切り捨てられる無価値な居候としか見ていなかったのだ。注いできたも、耐え忍んできた義母の嫌がらせも、すべては豚に真珠を投げていたに過ぎなかった。
私ので、何かが完全にえ切った。しみや涙など、滴も湧いてこなかった。ただ、絶対零度の静寂が、私の全の血を凍りつかせていった。