"四年分の介護記録" 第9話
血の拒絶
「な……直……!」
にいつくばったまま、健は救い主を見つけたかのように顔をげた。
「直! 助けてくれ! 母さんが狂っちまったんだ! 俺を無文にしてから追いそうとしている! おからも言ってくれ、俺はおの父親なんだぞ!」
健はちがろうとし、縋り付くように息子へを伸ばした。
しかし、歳になった直は、伸ばされた父のを眉つかさずに見ろし、汚らわしい虫を避けるように歩ろへ退いた。
その瞳に宿っていたのは、りやしみですらなかった。
氷点の、底れぬ「軽蔑」だった。
「父親? ……誰のことですか?」
直のくたい声が、健の鼓膜を容赦なく切り裂いた。
「よくもまあ、そんな汚らわしいで『父親』なんて言葉が吐けますね。……佐藤健さん」
名字すら、父の「」ではなく、母が旧姓に戻ることを見越した呼び方だった。
「な、何を言っているんだ直! 俺がおの学の学費を払ってやったんじゃないか! 誰のおかげでになれたとっているんだ!」
「学費? あんたが払ったのは最初の分だけだろ!」
直の声が、鳴りのようにリビングに響き渡った。
「残りの分は、母さんが結婚の個貯を解約して払ってくれたんだよ! あんたは『会社の付きいだ』『自分のキャリアへの投資だ』と言って、族のためのを全部み代とゴルフに消していたじゃないか!」
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直は胸ポケットから、枚の折り畳まれたを取りし、健のから投げ捨てた。
パサリと落ちたには、『親族関係断絶』と題された文面が印刷されていた。
「の。俺があんたに送ったメールを覚えていますか?」
直は歩詰め寄り、の健を見ろした。
「母さんが過労で血を吐いて倒れ、ばあさんが徘徊して所の警察に保護されたあの。俺はあんたに回話した。会社の緊急ホットラインにもかけた。でもあんたは度もなかった。……そしてその夜、あんたがSNSにアップした写真は、マリーナベイの級ラウンジで、女とシャンパンを乾杯している姿だった」
直の拳が、りでワナワナと震えていた。
「俺はあの夜、決めたんだ。自分の体のに流れているこの男の血を、涯かけて呪い抜いてやると。母さんが自分の命を削って、あんたの狂った母親の排泄物を片付けていたその瞬に、女とベッドで笑っていた男を、俺は絶対に父親とは認めない」
「直……違うんだ、あれは仕事の付きいで……」
「言い訳をするなッ!!」
直の声が、部の空気を震わせた。
「母さんはな! スキルス性胃がんの激痛に耐えながら、ばあさんのオムツを替えていたんだぞ!」
「……え?」
健の考が、完全に止した。
「が、ん……? スキルス……?」
ゆっくりと首を巡らせ、リビングの央につ由美を見つめる。
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髪、削げ落ちた頬、異様な痩せ方。
ただの労や過労ではなかった。
「由美……お……病気なのか……?」
「今さら気づいたのですか」
由美は自嘲の笑みを浮かべ、い胸元にそっとを当てた。
「、お義母さんの暴力が最も酷かった期に、ステージIVのスキルス性胃がんと診断されました。すでに腹膜播種を起こしており、術は能。余命と宣告されました」
「そ、そんな……なぜ……なぜ俺に言わなかった!?」
「言ったら、あなたが帰ってきたとでも言うのですか?」
由美の静かな問いが、健の胸に々と突き刺さった。
「『もう限界だ、助けてくれ』と泣きついた妻を、『甘えるな、仕事の邪魔をするな』と鳴りつけて逃げした男ですよ? 『癌になったから帰ってきて』と言えば、あなたはきっとこう言ったはずです。『は送っているんだから勝に治療しろ。俺はなプロジェクトの最なんだ』とね」
健の喉から、声がなかった。
図だった。
もしあの、由美から癌の報せを聞かされていたとしても、健は違いなく帰国を拒否し、だけを放り投げてシンガポールの甘い活に留まり続けたに違いない。己のの奥底にある、醜悪極まりない本性を、妻は完全に見透かしていたのだ。
「私には、倒れることすら許されませんでした」由美は仏壇を見つめた。「私が入院すれば、お義母さんはどうなるのか。
誰も引き取りのいない認症の老は、精神科の保護で縛り付けられてぬしかない。……だから私は、抗がん剤で髪が抜け落ち、激痛で夜通し嘔吐しながらも、お義母さんを取るまでき抜くと神様に祈り続けたのです」
由美の真っな髪は、老化によるものではなかった。
猛烈な抗がん剤治療の末に度すべて抜け落ち、その、素を失ってえ変わった、壮絶な闘病の痕跡だったのだ。
「すべては、お義母さんを国へ送り届けるため。そして……あなたが帰国したこのに、あなたからすべての偽りの栄を剥ぎ取り、獄へ突き落とすためだけに、私は命を繋ぎ止めてきたのです」
「由美……由美ィッ……!」
健はを掻きむしり、獣のような慟哭をげた。
取り返しのつかない罪のさが、臓腑を握りつぶすように彼を圧迫していた。