"四年分の介護記録" 第5話
鉄の扉の向こう側
由美は子から音もなくちがると、リビングをて廊の奥へとんだ。
健は、まるで目に見えない太い鎖で首を引かれるように、ふらつく取りでその背を追った。
廊の突き当たり。かつて、なウォールナットの突板で仕げられた特注のドアがあり、健が真鍮の鍵で厳にロックしていたあの所。
そこに嵌め込まれていたのは、見覚えのない無質ない引き戸だった。子がそのまま入りできるように部レールが撤され、壁には頑丈なステンレスのすりが段にわたって巡らされている。
「けてごらんなさい」
由美の声に促され、健は震える指先を引き戸の窪みにかけた。
ガラガラ……と、静かで乾いたプラスチックの滑音が響く。
扉がいた瞬、健の腔を突いたのは、ツンとを刺す濃度の塩素系消毒液と、消臭剤が混ざりった、病院特の苦しい空気だった。
「……な、なんだ、ここは……」
部のにを踏み入れた健は、愕然としてち尽くした。
そこに広がっていたのは、健がした斎の面など微もない、無質を極めた病そのものだった。
壁は面、汚れを弾くビニールクロスに張り替えられ、はたい医療用のクッションフロア。窓にはを完全に遮断する分い遮カーテンが固く閉ざされている。
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部の央には、ボタンつで半と脚部が昇するパラマウント製の介護ベッドが、巨な鉄の昆虫のように鎮座していた。ベッドの柵には、母が夜に暴れて体を打ち付けないよう、分いウレタンクッションが結束バンドで何にも巻きつけられている。
部の隅には、脱臭能付きのポータブルトイレ、点滴用のスタンド、そして井までうずく積みげられた、用オムツと清拭用タオルの段ボール箱の。
「お義母さんが暴れ、すべてを破壊した、この部を介護専用に全面改修しました。費用は百万円。あなたが残していったの売却代で支払いました」
由美はベッドの柵にそっとを置いた。その作には、何千回、何万回とこの所で繰り返されてきた介護のみが染み付いていた。
「最の、お義母さんはこのベッドので過ごしました。夜が来ると『健を返せ! おが息子を殺したんだ!』と叫びながら、私の髪を引っ張り、顔を爪で掻きむしり、当たり次第に物を投げつけました。私はこのベッドの脇にい煎餅布団を敷き、おきにおむつを替え、点滴を監し、朝を迎えました。……もできない夜が、何百続いたか、数えるのも途でやめました」
「お、おい……」
健の額から、脂汗が滲みしていた。
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「だ、だから言ったじゃないか……! そんな状態だったなら、なおさら無理をしてでも民の病院に放り込むか、精神科の閉鎖病棟へ制入院させればよかったんだ! なぜそこまでして、で面倒を見た!?」
由美はゆっくりと首を巡らせ、健を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もはやりすらなく、い淵のような憐憫が浮かんでいた。
「制入院? ……精神科の保護入院には、族の同が必です。キーパーソンである男のあなたの署名と捺印、そして面談が義務付けられていました。私は何度も、会社を通じてあなたへ緊急の連絡を入れましたよ。病院のソーシャルワーカーからも、国際話をかけました。……ですが、あなたの秘は何と答えましたか?」
由美は懐から、枚のメモ用を取りした。
『部は現、アジア各国の顧客との接待およびトップ会談で極めて忙を極めております。庭内の些細なトラブルで業務に支障をきたすことは社として容認できません。緊急の連絡はすべて子メールのみで受領します』
「あなたは、実の母親の精神科入院の同にサインすることすら、自分の華やかな仕事の邪魔だと切り捨てたのです。……自分から逃げを塞いでおいて、今さら何を言っているのですか?」
健の喉が、ヒュッと音をてて狭まった。
反論の言葉が、何つとしててこない。
「そして……お義母さんがくなる、奇跡が起きました」
由美の声が、かすかに震えた。
「、私の顔を見ても『棒! 殺し!』としか叫ばなかったお義母さんの濁りきった瞳が……くなるの朝、ふっと澄み渡ったのです。林先がおっしゃるには、期を悟った終末期の患者に見られる、な覚現象——枢神経の最の灯だったそうです」
由美はベッドの枕元をおしそうに見つめた。
「お義母さんは、自分の汚れた半を素で拭っていた私のを、震える両でぎゅっと握りしめました。そして……私の真っになった髪と、骨と皮ばかりになったを見て、ボロボロと涙を流されたのです」
『由美さん……ごめんなさい……。私、あんたに……あんなに酷いことばかりして……。それなのに、最まで私の汚いの世話をしてくれたのは……実の息子の健じゃなくて、あんただったんだね……』
母の掠れた声が、由美のから克に再現された。
健の臓が、たい氷に沈められたように凍りついた。
『健は……逃げたんだね。母親を見捨てて、自分だけ逃げしたんだね……。けない……あんな酷な化け物に育ててしまったのは、私の罪だ……』
「やめろ……!」
健はを塞ぎ、叫んだ。
「やめろ! 母さんがそんなことを言うはずがない! 母さんは俺を番していたんだ! 俺が稼いだで誇らしげに暮らしていたんだ!」
「現実を見なさい、健さん」
由美の徹なが、病の壁に鋭く反響した。
「お義母さんは、の直にすべてを理解されたのです。自分がし、甘やかし、誇りにしてきた息子が、母が狂った瞬にだけを放り投げて異国へ逃した、ただの臆病な寄虫であったという現実をね。……そしてお義母さんは、私に最の頼み事をされました」
由美はい引き戸にをかけ、リビングの方を指し示した。
「公証役の公証と、弁護士の渡辺先をこの部へお呼びしました。お義母さんの識がはっきりと清澄であった、その最ののうちにね。……さあ、リビングへ戻りましょう。お母様があなたに残された、本当の『遺産』の全貌をお見せします」